徳川家康討死説
徳川家康討死説
堺市内に南宗寺というお寺があります。そこに奇妙な言い伝えが残っています。
徳川家康討死およびその墓。第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光がこの寺に来ていること。明治期に山岡鉄舟が墓の横に「無銘塔家康諾ス」という石碑を建立したこと。
日光東照宮内にある遺品で家康専用の駕籠の天井が刀のようなもので破れていたことなどから命を落としたのではという声が、日増しに高くなってきているようです。
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徳川家康討死説
堺市内に南宗寺というお寺があります。そこに奇妙な言い伝えが残っています。
徳川家康討死およびその墓。第2代将軍徳川秀忠、第3代将軍徳川家光がこの寺に来ていること。明治期に山岡鉄舟が墓の横に「無銘塔家康諾ス」という石碑を建立したこと。
日光東照宮内にある遺品で家康専用の駕籠の天井が刀のようなもので破れていたことなどから命を落としたのではという声が、日増しに高くなってきているようです。
勝 海舟寓居(順正寺)跡 福島区野田1周辺
文久2年(1862)閏8月17日、軍艦奉行並に就任した勝 海舟は、同年12月、軍艦順動丸で大坂天保山に投錨し来坂しました。その後、大坂を基盤に兵庫、泉州、紀州などを訪れ、砲台の設置場所を吟味しています。勝 海舟日記には次のように順正寺を寓居先にしていたことが記載されています。
文久3年2月27日 朝、上陸。
安治川一丁目順正寺旅館に到る。(以下省略)
順正寺は、現在の大阪市福島区野田1丁目、中央卸売市場のあたりにありました。
「慶応四年目録」という史料では慶応4年(1868)9月2日丸亀藩数人が順正寺に宿泊した記録があります。
同寺は、昭和34年(1959)、廃寺となりました。
大阪旅めがね「大阪城ツアー」
以前写真で紹介しましたが、改めてスタート地点からクルージングを中心にご紹介します。
http://www.digibook.net/d/ee04e55fb1df9a09b178d143c942effc/?viewerMode=fullWindow
勝 海舟寓居(専稱寺)跡・海軍塾跡の銘板
今から8年前になるでしょうか。勝 海舟の大坂での旅宿先であり、海軍塾が開かれていた「専稱寺」の場所がようやく判明し、たくさんの人にご紹介してきましたが、石碑が無い為、周辺の方もご存じない。さらには「三休橋筋愛好会」も。
大事件は今年、テレビで紹介されたことです。NHK大河ドラマ「龍馬伝」。ドラマの最後にその日のストーリーに関連する史跡紹介がありますが、専稱寺・海軍塾跡として現在のスワンビル(大阪市中央区淡路町3-2)が紹介されました。その直後、龍馬ファンでもある岩手県知事が大阪に公用でお越しになっていて、史跡案内のお声かけがありました。
その後、yuki-utaさんが銘板設置の寄贈をしていただいたおかげで、ようやく大阪で「坂本龍馬」の文字がある史跡が三箇所目になりました。
AAホールには、気を使っていただき私の書いた「説明書」がラックに設置いただいています。
これからは、史跡案内のときにこの銘板をバックに紹介できると嬉しくなります。
偶然にもその場所から南の通り(江戸期では南鍋屋町になり、近藤長次郎の妻 大和屋があった場所になります)に京都で銘菓の「鼓月」のお店がオープンしており、坂本龍馬の珈琲カステラが売られていました。店員さんはアルバイトの方で、「この北側に坂本龍馬が来てたんですよ。」と言いましたが反応が無かったので詳しい話はやめました。
またその一本南の通りに岡山屋というラーメン店にも坂本龍馬のポスターが貼られてありました。
本町周辺で龍馬ツアーができるかもしれませんね。
http://www.digibook.net/d/d114ed9ba19c9008bd9c53c133592eae/?viewerMode=fullWindow
大阪城ツアー(クルージング&ウォーキング)
今年のアクアminiの運行が10月半ばで終了します。
大阪旅めがねでの大阪城ツアーは、難波の太左衛門橋港から「道頓堀川」「東横堀川」「土佐堀川」「大川」「第二寝屋川」を通って大阪城港までクルージングです。
途中、高麗橋付近の閘門で水位の調整を体験いただきます。
そして大阪城港からはウォーキングで大阪城天守広場へ。
大阪城といえば太閤さんですが、現在の大阪城は意外に知られていないことばかり。
最後は、元紀州御殿があった場所に茶店がありますが、そこで「たこ焼き造り」の体験をし自作のたこ焼きを食べてもらって解散となります。
18日はまだ暑いかもしれませんが、都合の会うかたは、是非お申し込みください。
日本一の花街(かがい)新町
先日は大阪の古代から現代に到るまでの「大阪だけの歴史(通史)」の講義を受けました。
大阪はやはり掘り起こせば面白い町であり、誇れる町だと思います。
この日、もっとも印象に残ったのは、夕霧太夫でした。
また機会があれば、詳しくご紹介します。
勝 海舟訪問の地
紀州藩伝法の別館跡 和歌山市湊紺屋町1-8
藩校学習館の西隣に紀州藩伝法御殿という施設がありました。
勝 海舟寓居先である福島屋からそれほど離れていません。
勝 海舟は、文久3年(1863)4月3日に和歌山に到着し、福島屋を寓居先としますが、翌日、紀州藩の久野丹波守、岡野平太夫、佐野出羽守ほか、海防担当者数人と友ケ島防禦について議論するため同藩の伝法の別館(伝法御殿)を訪れました。
このとき海舟は海軍の必要性も説いています。
また、4月10日にも再度、伝法の別館(伝法御殿)にて、久野丹波守と面談し、友ケ島砲台、海軍のことを話し合っています。
紀州藩校学習館跡 和歌山市湊紺屋町1-10
正徳3年(1713)、第5代紀州藩主 徳川吉宗によって設けられた藩の講釈所です。
その後、「学習館」と名称が変更されました。
現在この地にある株式会社世界一統は、学習館の跡地を南方熊楠の父である南方弥右衛門(初代)が紀州候から譲り受け、酒造業として創業しました。
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