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2010年8月

勝 海舟寓居(福島屋 清水平右衛門邸)跡

勝 海舟寓居(福島屋 清水平右衛門邸)跡

紀州藩家老 久野丹波守は、同藩の浜口儀兵衛に指示し、勝 海舟に砲台と海岸警備の検分を依頼しました。

文久3年(1863)3月29日の勝 海舟日記に御書付として次の内容を記載しています。

◎御書付

紀伊殿御領分海岸、砲台の儀につき、其方へ御談じなられ度き旨、仰せ立てられの趣もこれあり候間、紀州へ罷り越し、久野丹波守申し談じ候よう致さるべく候。

3月30日紀州へ向かうため出立し、その日は岸和田で1泊しています。4月1日は泉州田川(現在の岬町多奈川谷川)へ1泊。4月2日は加太で1泊。4月3日に和歌山へ到着しています。和歌山では加太を行き来しながら4月13日まで滞在します。その間は、紀州藩第14代藩主徳川茂承(もちつぐ)への拝謁をはじめとして、藩の重役と海防、砲台、海軍の必要性などについて議論を交わしました。

勝 海舟はの屋敷を寓居先として滞在しました。4月3日から13日まで紀州藩領内に滞在し、和歌山城下では福島屋という清水平右衛門南海和歌山市駅から東南に行った所にある「ファミリーショップ・クイノセ」の前に石碑があります。

この福島屋には、前述の南方熊楠の父 南方弥兵衛が番頭を務めていたことがあり、熊楠は父から勝 海舟が滞在していた話を聞いていたそうです。

勝 海舟宿泊の地 加太

勝 海舟宿泊の地 加太

勝 海舟は砲台および友ケ島防禦の件で加太(和歌山市加太)を何度も訪れています。

安政2年(1855)2月23日頃から30日頃にかけて、勘定奉行 石河政平(従者55人)および目付 大久保忠寛(従者33人)に勝 海舟(従者6人)が随行し、伊勢・大坂湾の海岸巡視を行いますが、岸和田を訪れた後、加太を来訪しました。

「公儀御巡見衆加太浦宿割控」(幸前家文書)によりますと、

○石河土佐守(御勘定奉行)従者含めて56人、宿「柳屋善助」「網干屋吉三郎」「北川屋佐兵エ」(11名の役人名の記載があるが省略)

○大久保右近将監(御目付)従者含めて34人、宿「利光平兵衛」「大坂屋平次郎」(6名の役人名の記載があるが省略)

○勝 麟太郎(奥田主馬支配 小普請組)従者含めて7人、宿「魚屋彦太郎」

勝 海舟の宿泊先は「魚屋彦太郎」邸であることがわかっています。しかしながら「魚屋彦太郎」邸跡地は、まだわかっていません。大久保忠寛の宿泊先は、加太の庄屋を務めていた利光平兵衛の邸でした。

この時の巡見により勝 海舟は、摂海防衛には加太・友ケ島は重要地点であると評し、江戸湾入口と対比して摂海入口は加太が浦賀と同じような価値のある場所と判断しています。また、加太で軍艦の造船所候補地とも考え、浦賀奉行に準じる加太奉行を設置し、幕府の直轄領にすべきであると主張しています。

薩長同盟

薩長同盟、寺田屋事件

大河ドラマではいよいよ「薩長同盟」締結が近づいてきました。

桂 小五郎は先行して上京。あとを追って龍馬が上京。

しかしながら、この段階で密偵によりマークされていたんですね。

大坂での龍馬の動向。上京してからの動向。

薩摩と長州はなにやらよからぬ密談をしていて、坂本龍馬がからんでいる。

締結後、伏見の寺田屋に戻ったときには、伏見奉行所が捕縛を試みます。

殺害ではなく捕縛し薩長の密談内容を拷問にかけて吐かせようとしたのだと思います。

なかなか切り込んでこない多勢の奉行所側に、龍馬がピストルを発射したので、刀を持つ上役が立ち向かい、手傷を負ったと考えられます。

寺田屋遭難の翌日、慶応二年一月二十四日には、奉行所から京都所司代を務める桑名藩へ襲撃の速報を送り、その夜、更にその後の追跡調査の報告を送っています。

龍馬が一時的に身を潜めていた材木納屋も現場調査を行い、出血の料で深手だと判断しています。

このころから、幕府側の要注意人物として龍馬はマークされていたんですね。幕府側だけでなく土佐藩からも。

土佐藩住吉陣屋跡ゆかりの遺跡 石垣

土佐藩住吉陣屋跡ゆかりの遺跡 石垣

 慶応2年(1866)、土佐藩は住吉陣屋の警備が免除となり、京都の警衛を命じられました。
 住吉陣屋の建物の主要部分は、慶応3年(1867)7月、京都北郊外白川村にある土佐藩邸内に設けられた土佐陸援隊(隊長:中岡慎太郎)本営に移築されました。住吉陣屋の石垣が、生根神社に一部移築されています。
 今でも住吉陣屋の遺構として見ることができる唯一の場所です。

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土佐藩住吉陣屋跡

土佐藩住吉陣屋跡

 幕末期、土佐藩が幕命により大坂の海岸警護のため築いた「土佐藩住吉陣屋」は、文久元年(1861)5月に完成しました。
約3.3ヘクタールもの広大なもので、陣屋が建てられた場所は、紀州街道(現在、阪堺電気軌道阪堺線が走っている道路)の東沿いに正門を設け、南北約360m、東西約140mの長方形で、東側である上町台地西崖を除いた三方向に堀を巡らしていました。正門入ってすぐに陣屋本殿があり、その奥である東隣に武芸所の文武館がありました。
  そのほか、厩舎、火薬庫、射撃場、操練所があり、約300名が常駐していたそうです。
 土佐藩住吉陣屋を示す石碑や案内板はありませんが、東粉浜小学校や東粉浜幼稚園付近がそれに該当します。

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大坂の幕末を歩く④

大坂の幕末を歩く④

イラストマップがアップされています。

松屋町から夕陽丘四天王寺まで。

新選組の史跡、陸奥宗光、小松帯刀の墓所跡、関西の桜田門外の変(水戸藩士密談の地)アーネストサトウと西郷吉之助が会談した場所、八軒家船着場の遺構などガイドブックにも紹介されていない貴重なMAPです。

http://www.osaka-asobo.jp/cms-image/c7f1e523ab30d482ad205d8021fb665e.pdf

大坂の幕末を歩く③

大坂の幕末を歩く③

イラストマップがアップされています。

北浜から本町まで。

勤王派、佐幕派さまざまな隠された史跡を案内しました。

特に、勝 海舟寓居跡となる専稱寺跡は、どのガイドブックにも紹介されていません。

大坂海軍塾として坂本龍馬、近藤長次郎、沢村惣之丞などが勉学に励んだ場所です。

http://www.osaka-asobo.jp/cms-image/07c0be4539ce26c8453f5b9edf36aa69.pdf

坂本龍馬ゆかりの地 阿倍野・住吉周辺

坂本龍馬ゆかりの地 阿倍野・住吉周辺

坂本龍馬は、脱藩(文久2年3月)の約4ヶ月前に来坂しています。
そのときに訪れた阿倍野・住吉周辺のゆかりの地をご紹介します。
「維新土佐勤王史」に抄録されている「望月清平陣営日記」には、次のように記されています。

文久元年十一月六日、坂本龍馬、旅宿新町より住吉陣営へ書状来(小生宛)、長州より来る趣。
同十一日、旅宿に訪ひ面会。

龍馬は剣術詮議という名目で、文久元年(1861)10月、讃州  丸亀藩へ向かい旅立ちますが、実質は武市半平太の書状を長州藩士 久坂玄瑞へ手渡すために長州 萩に向かうのが主目的だったようです。
萩に到着したのは11月上旬と思われ、久坂玄瑞の日記には「十一月十一日帰家」とあります。龍馬が訪れた時、久坂は帰宅しておらず不在だったと思われます。
そこで龍馬は、久坂の帰りを待たずに大坂へ向かい、望月清平に会ったと解釈されます。望月清平との面会場所である新町の旅宿は、史料不十分のため判明できません。
その後、再度、長州萩に向かい、文久2年(1862)1月14日、萩に到着し翌日の15日、久坂との面会がかないました。
久坂と数回会談した龍馬は、多大な影響を受けたと思われます。1月23日、萩を出発した龍馬は、再度、大坂へ向かいます。「維新土佐勤王史」には次のように記されています。

文久壬戌二月八日の事なりしが、坂本龍馬は飄然長州より中国路を経て大坂に井で、即夜住吉陣営に来りしかども、深更ゆゑ営門已に閉ちたれば、坂本は止むなく住吉神社の通夜堂に入りて、疲れしまゝに甘睡せり。
参詣男女の笑ふ声に目を覚ませば、さす日影は午にも近かりき、先づ使を走らし、営内の同志に告げ知らすや、檜垣清治来りたれば、相携へて阿部野の古戦場を散歩し、南朝の柱石 北畠顕家の墓を弔ひ、日暮に三文字屋に投宿す。
翌日より望月清平、安岡覚之助等、交も来りて時事を快談せしが、(中略)坂本は留ること四五日にして事情視察の為めに京師へ向けて立ち去りし(以下省略)

大坂を発った龍馬は京都を視察したうえで、土佐へ2月29日に帰着。
その1ヵ月後、3月24日に脱藩をします。

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八月十八日の政変

文久三年(1863)八月十八日の政変

旧暦ではありますが、幕末期、文久三年八月十八日に京都御所でクーデターが起こり、長州藩をはじめとした勤王攘夷派が都を追われました。

この政変が京都だけでなく、各藩内でも勤王派が弾圧され、佐幕派あるいは保守派が実験を握り、尊い人材が失われたのでした。

もっとも悲劇だったのは「天誅組」でしょう。

2012年の大河ドラマ

2012年の大河ドラマ

2012年(平成24年)の大河ドラマは「平 清盛」に決定!

清盛が主人公となるドラマも2回目。

前回は1972年(昭和47年)に放映された「新・平家物語」。清盛役は仲代達矢氏でした。

神戸が注目される年になりそうですね。

春期の多忙と夏期の多忙

ブログの更新を怠り、久しぶりにパソコンの前に座りました。

今年の春期は「龍馬史跡探訪ガイドブック(大阪)」の原稿やら史跡案内等では「龍馬史跡案内」「幕末の大阪を歩く」「ソーシャルカレッジ」「龍馬講座大阪&神戸」「弥太郎と龍馬ツアー」「大阪旅めがね」と休日は殆んど外出していました。

夏期に入り史跡案内はなくなりほっとしている状態ですが、仕事の影響もあり、帰宅してからパソコンを開くことすらできず、今日に至りました。

その分、春に比べて読書をする機会が増え、現在充電をしております。

京都のyonechanさんからは、ご自身の史跡探訪の連絡をいただいたり、yuki-utaさんからは

大阪の史跡の建碑活動などの連絡をいただき刺激を受けています。

桐野作人さんの講演を受けて、さらに勉強させていただきました。

次号の会報発刊にあたり原稿作成を機会に、新たな発見をしていこうと思います。

夏期休暇中はとにかく本を読みました。

新たなネタが見つかりました!

詳細は、会報に間に合えば投稿します。

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