幕末大坂ツアー 1回目 (天満橋~北浜)
明日いよいよ上記ツアーが開催あされます。
申し込みはキャンセル待ちとかで定員になっているとのことです。
2010春「天満橋~北浜エリア」
①天満 八軒屋家 船宿堺屋源兵衛跡
安政3年(1856)の水帳(御図帳のこと。江戸時代の土地台帳のような物)によると、間口26間(約50m)、奥行き9間(約16m)の大きな船宿だった。伏見の寺田屋と業務提携しており、坂本龍馬が利用した可能性が高い。司馬遼太郎作の「竜馬がゆく」文庫版第6巻に、堺屋から出てくる竜馬を、新選組の藤堂平助が隣の京屋の2階から見ている…といった記述がある。堺屋は明治20年代までこの場に存在した。
②天満 八軒屋家 船宿京屋忠兵衛跡
安政3年(1856)の水帳によると、間口11間(約20m)、奥行き9間(約16m)の大店だった。京屋は新選組の御用宿で、永倉新八の「浪士文久報告記事」にも登場する。芹澤鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司らが、しばしば利用した。とりわけ、文久3年(1863)4月から6月ごろにエピソードが多い。また、慶応4年(1868)1月8日、鳥羽伏見の戦いの後、大坂城を焼け出された新選組隊士たちは、ここ京屋に宿泊し、近藤らは11日に天保山から兵庫に碇泊したのち江戸に帰還した。明治初期には、京屋から和泉屋に名前が変わり、その後、4軒分の店に分かれた。
③紀州藩蔵屋敷跡
慶応4年(1868)、明治天皇がここに行幸された。天満八軒家船着場廃止後、昭和32年(1957)まで、大阪・伏見間を運行していた蒸気外輪船の船着場、荷物専用の運送専門船の発着場だった。近年、前島密像が設置さ置かれた。
④天神橋(大坂西町奉行与力 内山彦次郎天誅事件)
幕末期は全長25mの木橋だった。文久3年(1863)5月20日、この橋の上天神橋南詰で大坂西町奉行の与力、内山彦次郎が暗殺(天誅)されたと言われている。新選組暗殺犯説が根強いが、近年、研究者は否定している。内山は大塩平八郎の乱で活躍した敏腕与力だが、その後、汚職が疑われ、反幕府勢力の恣意行為で天誅されたと思われる。文久3同年7月2日、石塚岩雄の首が天神橋の欄干に晒された。石塚は壬生浪士組と偽り、商家から借用した金を遊興費にあてていたといい、壬生浪士に処刑されたようだ。新選組は慶応3年(1867)年12月14日にも天神橋を渡っている。大政奉還に伴い、将軍慶喜が大坂城に入り、新選組も京を引き払い、大坂にやってくる。その際、布陣したのが大坂天満宮で、2泊した後、16日に最前線となる伏見へ向かった。鳥羽伏見の戦いが始まるのは、それから半月後のことである。
⑤竹式楼跡
安政5年(1858)12月27日、越後長岡を旅立った越後長岡藩士 河井継之助は、尊敬する山田方谷(備中松山に居住)を訪ねる途上、「塵壷」という日記を書き記した。それによると安政6年(1859)7月5日、大坂に到着し長岡藩蔵屋敷に宿泊。翌日、今橋新地(築地蟹島)にある「竹式楼」に宿泊したことが記されている。図録『浮世絵師 初代長谷川貞信が描いた幕末・明治の大阪-「水の都」の原風景-』の「築地蟹島」に「竹式楼」が描かれている。
⑥瓢箪屋跡
安政2年(1855)、庄内藩出身 清河八郎が母 亀代を連れての西国旅行の途中、大坂へ立ち寄り「瓢箪屋」へ宿泊した。同年6月25日の夜、清河八郎一行は「瓢箪屋」の火の見台にのぼって、美酒と佳肴を味わいながら天神祭船渡御を見物し、水の都大坂の夏を満喫したようである。幕末から明治にかけて「瓢箪屋」の当主であった四代目帯屋源兵衛は茶人で、「瓢遊」と号し、瓢箪の収集家だった。(現在、大阪歴史博物館が所蔵)
⑦花外楼
天保年間、「加賀伊」という料亭旅館を初代伊助が開業。元治元年(1864)夏、京都から追われてきた長州藩士を匿ったのがきっかけで、勤王思想を持つようになり、この「加賀伊」は志士の潜伏や密議の場となり、桂小五郎(木戸孝允)が潜伏したといわれている。
明治になり「明治六年の政変」後、孤立無援となった大久保利通は、木戸孝允を復帰させるため、大阪で数ヶ月間かけて話し合いを行った結果、明治8年(1875)2月11日、「加賀伊」にて大久保利通、木戸孝允、板垣退助との和解が成立し、木戸、板垣が政府に復帰することが決まった。これを「大阪会議」という。会議成功の記念に木戸孝允が揮毫した「花外楼」が、店名として変更され今日に至る。
⑧岩城枡屋跡
江戸時代、高麗橋周辺は繁華街で、京街道の起点でもあった。呉服屋、扇屋、薬屋、菓子屋などの有名店が軒を並べるブランドストリートで、岩城枡屋もは江戸にも支店があるような、大きな呉服屋だった。文久3年(1863)秋、ここに賊が入る。京屋に滞在中の新選組に知らせが来て、山南敬助ら隊士3名が岩城屋に駆けつけ、賊と斬り合いになった。かなり激戦になったようで、近藤勇は、山南のぼろぼろに刃こぼれして、べっとりと血糊がついた赤心沖光銘の押し型や、事件の様子を故郷の多摩に書き送った。それを多摩の庄屋で地元の有力者だった、小島鹿之助が日記に模写して、書き残している。この事件で、会津候(京都守護職 松平容(かた)保(もり))から報奨金8両が下賜された。
⑨平野屋五兵衛邸跡
平野屋は寛永13年(1636年)に両替商開業の老舗。両替仲間の統領にもなったこともある。向かいの天王寺屋五兵衛も大きな両替商だった。文久3年(1863)夏、芹澤鴨以下の壬生浪士が平野屋から借金して、京都大丸で浅葱色のだんだら染めの羽織や誠の旗を新調したと言われている。その後も、新選組は、何度か今橋周辺の両替商から攘夷にむけての武器料や、新選組の費用を調達するために徴収をし、寄付をつのった。平野屋一族の平野屋孫兵衛の番頭である武兵衛は、「近藤勇は極悪人」と日記に書き残している。何でも「15万両の押し借りをした。」とあり、それで非常に評判が悪いと。それから、新選組は「局長」というので珍しいとも書いている。
⑩泉専崎楼跡
花外楼の南西にあった専崎楼は、大きな料亭で御約束の芸者もいた。明治8年(1875)大阪会議の際、伊藤博文が「専崎楼」を宿泊地として、伊藤と木戸孝允が対談したり、黒田清隆も宿泊している。明治中期には、陸軍中将 高島鞆之助や初代奈良県知事を務めた税所 篤など多くの政治家、陸軍高官がこの店を贔屓にしていた。
⑪難波橋(池内大学)
浪速三大橋(天満橋、天神橋、難波橋)のうちのひとつ。彫刻家 天岡均一氏作のライオン像が備えられたため「ライオン橋」という愛称になった。梁川星巌、梅田雲浜、頼 三樹三郎らと幕末期京都で活躍した儒者 池内大学は、土佐藩 山内容堂から宴会に招待され土佐藩大坂蔵屋敷から帰り刺客に襲われ落命。首は難波橋に晒され、切り落とされた耳は、脅迫状と共に京都の公卿 中山忠能邸と三条実愛邸に投げ込まれた。犯行は土佐藩士岡田伊蔵の説がある。
⑫五代友厚公像
五代友厚は、薩摩藩医 五代秀尭の子として坂本龍馬と同じ天保6年(1835)に生まれた。坂本龍馬の海援隊と紀州藩が争った「いろは丸事件」で両者の仲介を務めた。慶応元年(1865)、30歳の時に欧州を視察。帰国後、新政府の参与、外国官権判事などを歴任。堺事件の解決に尽力。その後、多くの事業を起こし、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立し初代会頭に就任。東京商法会議所を設立した渋沢栄一と比肩する人物として「東の渋沢,西の五代」と称された。
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