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大阪にある坂本龍馬ゆかりの地 ④

大阪にある坂本龍馬ゆかりの地 ④

久しぶりにブログを書いています。

「龍馬伝」は第1回の剣術修行が終えました。

創作がありますが、あえてドラマなので楽しんでみていますが、初めて龍馬を見る人が間違って解釈をしないで真実も知っていただきたいと思うばかりです。

当然ながら龍馬と吉田松陰が出会うはずもありません。根幹となる岩崎弥太郎と坂本龍馬は出会うのが、慶応(1865~8)年間です。現在のドラマは嘉永6年(1853)ですからまだ10年先のこととなります。

さて、本題です。

大阪にある坂本龍馬のゆかりの地の紹介ですが、龍馬とは直接関係ありませんが、お龍さん(龍馬の妻)に関連する史跡を紹介します。

【お龍さんの武勇伝】

お龍が妹の光江を救出するため京都から大坂へ取り返した。という話は有名です。

そのいきさつはお龍の回顧録「続反魂香(四)」で次のような記録が残っています。

お良話しましたので、そりゃ大変です。(途中省略)お良は、宜しいお母さん、御心配なさいますな、妾(わた)しは還って見ると、妹の光枝が居ませむから、如何したのかと母に聞くと、これこれと訳を話しましたので、妾(わた)しが行って取り返して来ますからと、金子を調へて、先ずお吉(光枝をさらって売り飛ばそうとする狼婆)家へ行へゆき、此処で亭主と言ひ争った末に、愈大坂の居処が知れて、お良は大坂へ渡り、ドブ池といふ処に、お吉と他に男が三人無頼漢(ごろつき)風の奴が、光枝を取りかこむで何か言って居ります処へ、突然坐りこむで白眼(にら)み廻すと、流石の四人も不意にお良が来たので、唯、呆然と仕て居りました。

軈(やが)て口を開き、おいお前さん方は、何たつて妹をこんな処へ連れてきたんです。

母に聞けば大家へ小間使ひにやるとかいふそうですが、妾(わた)し眼の黒い内は、めつたに妹を他処へは遣りませむよ、さあ、妾(わた)しが妹を連れて帰りますから、其積りで居て下さいと、立上がって妹の手を執ると、一人の男が、矢庭にお良の腕を捉へて、やい阿魔(あま)、何でい、此女を如何するといふんでい、と眼を怒らせて今にも飛かゝらむ勢ひ。お良は平気で、何だとい、此女を如何する、フン自分の妹を自分が連れてゆくに何が如何したとお言ひだい、ふざけた事を言ひなさむな。(途中省略)

傍らにあった火鉢を執って投げつけますと、ぱつと上る灰神楽。即意即妙の目つぶしに、三人とも目をやられて、言ひ合したやうに台所へ馳せゆく隙を窺ひ、光枝の手を執って表へ出ますと、お吉婆が、背後から帯を捉えて引戻そうとするやつを、エイッと蹴飛ばして逃げ出し、八軒家の京屋といふ船宿に飛び込むで、三十石船に乗り京都へ帰って我が家へ着きました。(帰ると妹の君江も連れて行かれたと聞き、母を叱咤し急いで連れ帰りました。(以下省略)

文中に出てくる地名ドブ池とは、「丼池」という字を書きます。

御堂筋から東に南北の筋1本目が「心斎橋筋」3本目が「三休橋筋」。その間の2本目が「丼池筋」にあたります。芦間(あしま)の池というどぶ池があったことからその名が付けられ、芦間小学校は統合により、今は現存しません。芦間小学校は現在の大阪市中央区南船場3丁目7番あたりにあり南船場会館の東側あたりに該当します。近くに芦間(あしま)の池というどぶ池があったそうですので、「丼池」が正しいならば、心斎橋駅北東部分の箇所(大阪市中央区南船場3丁目付近)になろうかと思われます。

丼池筋とか記載しなければいけないところを丼池と記載したのであれば、広範囲ですので特定は難しく別の史料から探すしか方法はないと思います。

どぶ池跡の周辺

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