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2010年2月

坂本龍馬の手紙 140通目が新しく発見!

龍馬の手紙 新しく発見!

これまで龍馬の手紙は139通確認されてきましたが、このたび、歴史作家であり東京龍馬会会員でもある桐野作人さんが、龍馬の署名が無いにもかかわらず、龍馬の手紙と判断され、慎重に考証の結果、間違いないということで「歴史読本4月号」新人物往来社(発売中)に発表されました。

龍馬の花押がポイントでした。

桐野さんは、東京龍馬会のMさんを通じてメールでいくつかの情報をgive&takeさせていただきました。TAKEのほうが比重が高いのですが(笑)

坂本龍馬が率いる土佐海援隊の大坂詰所である「薩万」跡についてもご指導いただきました。

大阪龍馬会では今年の夏、龍馬大学校として桐野さんをお招きして講演をお願いしたところ快諾いただきました。

テーマは「最新の龍馬研究」です。薩長同盟締結の地、龍馬の手紙のほかにも現在進行中の研究内容が聴けるのかもしれないと思うとわくわくします。

桐野さんのブログ

http://dangodazo.blog83.fc2.com/

旧京街道を歩く 続編7

旧京街道を歩く 続編7

枚方を出発してようやく大阪城天守閣が見えてきて、ゴールに近づいてきました。

このときは右足が痛み出したときでもあります。

マラソンですと折り返し点にすぎないのですよね。

そう考えると、マラソン選手は超人であることがよく実感いたしました。

坂本龍馬や中岡慎太郎も我を忘れ、国のためひたすら歩き貢献したことが、いかに大変だったということがわかりました。

さて、写真の紹介です。クリックしてください。

http://www.digibook.net/d/9154c7939198bad13a594bf5915aeff8/

岩崎弥太郎旧居跡

岩崎弥太郎旧居跡

大阪にある土佐藩蔵屋敷跡には、土佐稲荷神社、大阪市中央図書館などがありますが、「岩崎家舊邸跡」という石碑があります。

最近、この碑があったマンションが工事となり、石碑が土佐稲荷神社に移されました。

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坂本龍馬の脱藩罪赦免

龍馬脱藩罪(京都土佐藩邸謹慎)

文久3年(1863)2月、1年前に脱藩した坂本龍馬は、勝海舟の門下生になり、勝海舟と土佐藩山内容堂と会見で脱藩罪が許され、勝海舟の下で蒸気船の操船等の基礎を学ぶこととなります。謹慎終了後、3月には大坂の勝海舟寓居(専稱寺)を訪れ、本格的な活動を開始します。

旧京街道を歩く 続編6

旧京街道を歩く 続編6

写真の紹介が続きます。

クリックください!

http://www.digibook.net/d/7ec4a197919f90953ebcc1d34b48afe8/

大阪検定合格者の集い

大阪検定合格者の集い

大阪検定合格者の集いに参加してきました。

2部構成で、1部は街歩きか伝統芸能の鑑賞。わたしは街歩きの中の「三休橋筋コース」を選びました。

案内するガイドは3名の「三休橋筋愛好会」の皆さんでした。立派なMAPも作成されていました。

わたしがこのコースを選んだのは「勝海舟寓居跡、大坂海軍塾跡」を知っていただくためです。

運良く大阪旅めがねのエリアクルーの方がこの愛好会にも所属されていました。

第2部はなかなか入れない「綿業会館」7階ホールにて交流会。

司会は梅田 淳さん。

盛り上がったのは、参加者が作成した大阪に関する問題を全員参加で勝ち抜き戦をおこないました。それはもう難問ばかりでした。

最後に自分の作成した問題が採用され、前に出させてもらいました。

次ぎの塾のうち綿業会館より最も近い宿はどこでしょう?

①適塾 ②心学明誠舎 ③慶應義塾大阪分塾 ④大坂海軍塾

正解者は折られず残念でしたが、勝海舟寓居跡が三休橋筋にあるということをアナウンスできたことに大きな成果があったと思います。

しかし、プロとはいえ梅田さんの司会は、なかなか上手なものでした。

朝のラジオに出演されています。

ラジオ大阪「出発進行! うめじゅんです」AM7:00~9:00

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龍馬にかかわる新事実

坂本龍馬に関する新史料

龍馬に関する新しい史料が発見されています。

全国各地の研究家の先生方に脱帽です。

さきほど土佐のYさんより連絡があり、志士の手紙が見つかり解読中。

手紙には土佐藩士(郷士)や龍馬に関する内容の文面があるとのこと。

発表が待ち遠しいです。

旧京街道を歩く 続編5

旧京街道を歩く 続編5

旭区から城東区までの写真です。

有名な「七曲り」も歩いてきました。

クリックしてください。

http://www.digibook.net/d/2e44af37a099b0d9aa5bc955a742aeae/

旧京街道を歩く 続編4

旧京街道を歩く 続編4

守口から西へ進みます。

その模様を写真でご覧ください。

クリック

http://www.digibook.net/d/0894cf9bb098bad9ae3951670f5befa8/

旧京街道を歩く 続編3

旧京街道を歩く 続編3

上記タイトルの写真紹介の続編です。

クリックください。

http://www.digibook.net/d/b714e973905e98982ef95165174a2fac/

薩長同盟締結の地の新説!

坂本龍馬の新説

「歴史読本3月号(新人物往来社)」にて薩長同盟が締結された場所、小松帯刀寓居跡の跡地についていくつかの史料を裏づけにより新しい説の発表がありました。

さて、発表された方は誰でしょう? クリック

http://blog.with2.net/vote/?m=v&id=31019

詳しくはお買い求めのうえご覧ください。

次の4月号では、同じ著者が坂本龍馬についての新発見を発表されるとの事です。

こちらのほうも楽しみです。

旧京街道を歩く 続編2

旧京街道を歩く 続編2

写真の続きです。

クリックしてください。

http://www.digibook.net/d/9b55e5bb91dab0d52ebcdb531158efa8/

千葉佐那さんは美人だった

坂本龍馬の魅力

史実と違う龍馬像ができているような気がしますが、龍馬は2枚目でないのに大変女性にもてたことは真実のようです。

先般、発見された千葉佐那さんの錦絵。

龍馬の手紙に書いてあるとおりだったようです。佐那さんの本名といいますか別名を乙女といいました。この千葉佐那さんと平井加尾さんと比べている内容も龍馬の手紙に残っています。どちらも美人だったのでしょうね。

この錦絵を発見された方は誰でしょう?

http://blog.with2.net/vote/?m=v&id=30852

坂本龍馬グランプリウォーク in 大阪 <続編>

坂本龍馬グランプリウォーク in 大阪 <続編>

そのときの写真を御覧ください。クリックしてください。

http://www.digibook.net/d/6ed4a317a15cbadd321edb4371512eea/

坂本龍馬グランプリウォーク in 大阪

坂本龍馬グランプリウォーク in 大阪

2月13日(土)14日(日)。

坂本龍馬グランプリウォーク実行委員会の主催、大阪府ウォーキング協会の主管による

イベントが開催されました。13日(土)は枚方~大阪城まで、旧京街道をひたすら歩く23キロメートルのコース。14日(日)は、大阪市内を巡るコース。Dsc040210005

私は、両日参加する意気込みでしたが、13日(土)に23Km歩いてgive-upしてしまいました。

参加者のほとんどがご年配の方ばかり。恐るべしシニアの皆様がた! 

早朝、9時枚方市駅前の公園に230名が大集合。

いろいろな方からのご挨拶がありましたが、大阪龍馬会の林事務局長も一言挨拶されました。

スタートと同時に蟻の行列。先頭は後ろの人が赤信号で止まろうがお構いなし。さっさと先へ。

枚方宿跡となる場所から旧京街道を歩きました。

街道沿いの家は、やはり松の木を持つ立派なお屋敷が多く、道標もありました。

Dsc040840004_3

     

枚方に「明治天皇」の碑があり、びっくりしました。

史跡探訪と違い、ただひたすら歩くのみ。こういうイベントは初めて。

単独で参加されている人は、おそらく黙々と歩いたのでしょうね。

大阪龍馬会からの参加者も昼食休憩以降、私以外全員離脱。

ただ、わたしは黙々と歩かず、ひたすら「石」を探しながら、街道のコースをかみ締めながら歩きました。

千林商店街、旭国道筋商店街、京橋の商店街(リブ・ストリート)を蟻の行列が占拠し、お店の方、通行人、この行列に遭遇した人たちは唖然とした顔をされていました。「これは何だ!」という感じでした。

最終地点、大阪城に到着してから、じわじわと足が痛み出し、帰りは足を引きずりながら空しく帰宅しました。

23㎞歩いただけで、他の参加者は楽しかったのだろうか、と未だに理解に苦しんでおります。

私は、今年は「旧街道をガイドする」がテーマですので、美味しいネタを仕入れることができました。

14日も参加したかったのですが、龍馬に関連する「土佐稲荷神社」や「薩摩藩蔵屋敷跡」はコースに入っていましたが、果たして「薩万跡」や「竜馬がゆく執筆の地 司馬遼太郎旧居跡」など説明があったのだろうかと心配しています。Dsc041770003_2

このブログを書いている今、足の痛みがなくなっていることにホッとしています。

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大阪にある坂本龍馬ゆかりの地 ④

大阪にある坂本龍馬ゆかりの地 ④

久しぶりにブログを書いています。

「龍馬伝」は第1回の剣術修行が終えました。

創作がありますが、あえてドラマなので楽しんでみていますが、初めて龍馬を見る人が間違って解釈をしないで真実も知っていただきたいと思うばかりです。

当然ながら龍馬と吉田松陰が出会うはずもありません。根幹となる岩崎弥太郎と坂本龍馬は出会うのが、慶応(1865~8)年間です。現在のドラマは嘉永6年(1853)ですからまだ10年先のこととなります。

さて、本題です。

大阪にある坂本龍馬のゆかりの地の紹介ですが、龍馬とは直接関係ありませんが、お龍さん(龍馬の妻)に関連する史跡を紹介します。

【お龍さんの武勇伝】

お龍が妹の光江を救出するため京都から大坂へ取り返した。という話は有名です。

そのいきさつはお龍の回顧録「続反魂香(四)」で次のような記録が残っています。

お良話しましたので、そりゃ大変です。(途中省略)お良は、宜しいお母さん、御心配なさいますな、妾(わた)しは還って見ると、妹の光枝が居ませむから、如何したのかと母に聞くと、これこれと訳を話しましたので、妾(わた)しが行って取り返して来ますからと、金子を調へて、先ずお吉(光枝をさらって売り飛ばそうとする狼婆)家へ行へゆき、此処で亭主と言ひ争った末に、愈大坂の居処が知れて、お良は大坂へ渡り、ドブ池といふ処に、お吉と他に男が三人無頼漢(ごろつき)風の奴が、光枝を取りかこむで何か言って居ります処へ、突然坐りこむで白眼(にら)み廻すと、流石の四人も不意にお良が来たので、唯、呆然と仕て居りました。

軈(やが)て口を開き、おいお前さん方は、何たつて妹をこんな処へ連れてきたんです。

母に聞けば大家へ小間使ひにやるとかいふそうですが、妾(わた)し眼の黒い内は、めつたに妹を他処へは遣りませむよ、さあ、妾(わた)しが妹を連れて帰りますから、其積りで居て下さいと、立上がって妹の手を執ると、一人の男が、矢庭にお良の腕を捉へて、やい阿魔(あま)、何でい、此女を如何するといふんでい、と眼を怒らせて今にも飛かゝらむ勢ひ。お良は平気で、何だとい、此女を如何する、フン自分の妹を自分が連れてゆくに何が如何したとお言ひだい、ふざけた事を言ひなさむな。(途中省略)

傍らにあった火鉢を執って投げつけますと、ぱつと上る灰神楽。即意即妙の目つぶしに、三人とも目をやられて、言ひ合したやうに台所へ馳せゆく隙を窺ひ、光枝の手を執って表へ出ますと、お吉婆が、背後から帯を捉えて引戻そうとするやつを、エイッと蹴飛ばして逃げ出し、八軒家の京屋といふ船宿に飛び込むで、三十石船に乗り京都へ帰って我が家へ着きました。(帰ると妹の君江も連れて行かれたと聞き、母を叱咤し急いで連れ帰りました。(以下省略)

文中に出てくる地名ドブ池とは、「丼池」という字を書きます。

御堂筋から東に南北の筋1本目が「心斎橋筋」3本目が「三休橋筋」。その間の2本目が「丼池筋」にあたります。芦間(あしま)の池というどぶ池があったことからその名が付けられ、芦間小学校は統合により、今は現存しません。芦間小学校は現在の大阪市中央区南船場3丁目7番あたりにあり南船場会館の東側あたりに該当します。近くに芦間(あしま)の池というどぶ池があったそうですので、「丼池」が正しいならば、心斎橋駅北東部分の箇所(大阪市中央区南船場3丁目付近)になろうかと思われます。

丼池筋とか記載しなければいけないところを丼池と記載したのであれば、広範囲ですので特定は難しく別の史料から探すしか方法はないと思います。

どぶ池跡の周辺

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坂本龍馬の来坂

坂本龍馬が大坂に来る

坂本龍馬がまだ脱藩する前、剣術修行を名目に土佐を後にし、文久元年(1861)11月11日に、住吉陣営に詰めていた土佐藩藩士 望月清平と龍馬宿泊の地で面会しました。

そのあと龍馬は、長州の萩に向かい同2年1月14日萩に到着。15日と17日に長州藩士 久坂玄瑞と面会しました。

久坂と面会したことで龍馬の人生は大きく影響を受けることとなります。

同年1月23日、萩を発ち再び大坂へ向かいます。

2月8日住吉陣営に着き望月らと面会を求めますが、深夜の為かなわず、住吉大社の通夜堂で宿泊します。翌日、昼前に起きて檜垣清治とともに、南朝期の阿倍野古戦場と北畠秋家の墓参りをしています。9日、維新土佐勤王史には「新町三文字屋」に宿泊したとありますが、住吉から新町というのは距離的に不自然がありますが、新町の三文字屋に投宿したとあります。

10日、望月清平、安岡覚之助らが寄宿先を訪れ、龍馬と面会しました。

翌月の3月24日、龍馬は土佐藩を捨て脱藩することとなるのです。

さて、この「三文字屋」は大阪市西区の新町とばかり思い込んでいましたが、住吉の新家にあった三文字屋の可能性が高いことがわかりました。

住吉大社の方からご教示いただいたのですが、東海道中膝栗毛にも登場していて、200人が参集し宴会できる広さを持つ大きな料亭旅館だったようです。

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龍馬の裏書

慶応2年(1866)2月5日

坂本龍馬は、薩長同盟の仲介→寺田屋騒動による重傷→薩摩藩邸潜伏

とめまぐるしく奔走し、このあと鹿児島へ向かい妻のおりょうさんと新婚旅行。

大坂にいた長州藩 桂 小五郎から薩長同盟で取り交わされた密約の六条の証明をして欲しいと龍馬に依頼します。

龍馬は桂 小五郎から届いた依頼文書紙の裏面に朱筆で次の裏書を記しました。

表に御記被成候

六条ハ、小(小松帯刀)、西(西郷吉之助)、両氏及

老兄(桂 小五郎)、龍(坂本龍馬)等も御同

席ニて談論セシ

所ニて、毛も(すこしも)相違

無之候。後来と

いへども決して

変り候事無之

ハ、神明の知る

所ニ御座候。

    丙寅

     二月五日 坂本龍

厳しい就職戦線に対する保護者の支援

厳しい就職活動戦線

歴史とはまったく関係ありません。あしからず。

先般、1/30に追手門学院大学において「保護者のための就職講演会」が開催され、法政大学キャリアデザイン学部教授の宮城まり子先生の講演がありました。

厳しい就職難ということで約150名の保護者が出席されました。

講演テーマは「若者の社会的・職業的自立のために保護者はどうあるべきか」。

就職活動をされる保護者の支援方法と行ってはいけないことなど、印象に残るお話でした。

親の価値観を押し付けたり、世間体を気にして有名企業に入れとか、親が説明会に参加したり企業に親が変わりに電話したりしている事例をあげながら、保護者の立場の重要性をご指摘されていました。

私の子は、まだまだ先ですが、現在就職活動されているお子様をお持ちの方がいらっしゃいましたら、コミュニケーションをとり押し付けたりしかったり、焦らしたりすることのないよう、見守ってあげなければならないとの事でした。

NHKの「おはよう日本」で2/8の週のいずれかの曜日に特集として、この日の講演の模様や相談業務などが放映される予定です。

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