赤穂義士ゆかりの地 5
赤穂義士ゆかりの地 5
矢頭長助・右衛門七墓所、矢頭右衛門七顕彰碑 北区堂島3-3-5(浄祐寺)
<矢頭長助>
赤穂藩に25石5人扶持中小姓勘定方として仕えていました。元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩の刃傷事件後、開城手続の際、家老大石内蔵助良雄の補佐役として活躍しました。
仇討ちには当初から参加する意向でしたが病で倒れ、元禄15年(1702)7月28日に行われた「円山会議」には、子の右衛門七を代理で出席させました。同年8月、大坂にて亡くなります。
臨終の際、右衛門七に自分の腹巻を与え、父の分まで働いて、亡君の仇を討ってほしいと遺言したといいます。
<矢頭右衛門七>
17歳のとき、父の遺志を継ぎ、仇討ちの同志に加わります。吉良邸討入りでは表門を担当しています。引き上げ後の泉岳寺では美男紅顔であったため僧侶たちに人気があったそうです。
討入り後、水野監物忠之に御預けとなり、元禄16年(1703)2月3日に切腹しました。
享年18歳。
矢頭右衛門七の顕彰碑が浄祐寺境内にあります。「矢頭教兼碑 明治元年十一月建 河野逸撰文 小寺静書」と記載されています。この顕彰碑は東福寺別院(北梅田町)にありましたが、大火によりこちらに移されました。
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