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32.薩摩藩御用商人 薩摩屋半兵衛

幕末の志士が歩いた大坂 32回目

薩摩藩御用商人 薩摩屋半兵衛

 薩摩屋半兵衛は、源氏の子孫にあたります。平安時代末期、源 頼政が宇治の戦に敗れ、後裔の親綱が京都嵯峨にある川端に隠れ住んだことから、その後、川端姓を名乗ります。

 元和3年(1617)、川端頼長(川端家第11代当主)は桔梗屋五郎右衛門、紀伊国屋藤左衛門らと共同し、江戸堀川を開削しました。その功績により、川端頼長は惣年寄(大坂町人有力者で構成されていて約10人で合議する役人のような役割)に任命されました。

 第12代川端頼直、第13代頼賢の頃から、薩摩藩との関わりができ、正徳元年(1711)、川端家第15代直英の時、薩摩の国産品である黒砂糖を専売の権利を得ました。

 そのとき、川端家は惣年寄から外され、薩摩屋仁兵衛(比田家)に惣年寄を命ぜられ、両家は永年不和が続いたといいます。

 第15代川端直英は、薩摩藩より黒砂糖取扱いの権利と、「薩」の字を家印とし、以来「薩摩屋」と称することが許されます(「薩摩屋」という屋号を持った商人は十数軒ありました)。

 第16代川端英氏(薩摩屋半兵衛)は、延享2年(1745)、薩摩藩より黒砂糖に加えて菜種子、椎茸、鰹節など取扱いを命じられます。また長州藩、土佐藩にも出入りが許されます。

 その川端家23代目にあたる薩摩屋半兵衛(川端廣長)は、大坂で父祖の家業を継ぎ、薩摩藩出入り御用商人として、薩摩の産物(砂糖、煙草など)を取扱い、薩摩藩邸(江戸堀の屋敷と書かれていることから薩摩藩蔵屋敷の中屋敷と思われます)の鍵保管役を務めました。半兵衛廣長は長崎との商取引をする中で、蘭語習得の必要性を感じ勉強しました。

 24代目半兵衛直廉も父の影響を大いに受け、父子ともに緒方洪庵の「適塾」に通い勉強しました。この薩摩屋23代目半兵衛廣長は、勤王の志士を援助し、邸内に匿ったりもしました。坂本龍馬を匿ったという説が残っています。廣長は、会津藩士に斬られ重傷を負っています。

 薩摩屋24代目半兵衛直廉は、鳥羽伏見の合戦の際、薩摩藩の軍費を整え、貢献しています。ボードウィンと川端家は、蘭語の習得の際、適塾を開塾した緒方洪庵を通じて親しくなりました。

 アントニウス・フランシスカス・ボードウィンと川端家は、蘭語の習得の際、適塾を開塾した緒方洪庵を通じて親しくなりました。浪華仮病院の教師として招聘された蘭医ボードウィンの寓居先に、自身の菩提寺である法性寺を推挙します。

法性寺

http://members.at.infoseek.co.jp/hossyoji/index/

 当時の住職竜見日定師は、ボードウィンを喜んで受け入れます。

 廣長は明治4年(1871)に55歳で、直廉は大正3年(1914)に75歳で他界しています。

 明治期の「資産録」に1位が住友、2位に鴻池と記されていますが、川端家も上位にランクインしているようです。

1140001

 ※情報提供:薩摩屋半兵衛のご子孫である川端直正氏

 

 

 

 

詳細は

http://www.tk-ryoma.com/patio/read.cgi?no=158

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