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夕陽丘の夕陽と史跡

夕陽丘の夕陽と史跡

鎌倉初期、新古今和歌集の撰者でもあり、藤原定歌と並んで評価された歌人、藤原家隆が78歳で初めて京都を離れ、日想観を修めながら永眠することを願い、上町台地の夕陽がきれいな場所に「夕陽庵(せきようあん)」という庵を建てました。

契りあれば 難波の里に宿り来て

 波の入日を 拝みつるかな

という句を詠みわずか10数日で永眠します。

明治初期、伊達宗広(陸奥宗光の父)が家隆を慕いこの地に「自在庵」という庵を建て、いえたかの墓の修繕をします。宗広は余生を歌道に専念します。「夕日丘」という地名を創名したのは伊達宗広でした。明治5年、体調を崩し、東京の陸奥宗光邸に移ります。この地を去るとき

空蝉の 殻は何處に 朽ちぬとも
      我魂やどる かた岡ぞこれ

という句を詠みます。明治10年伊達宗広が亡くなり、遺言どおり家隆塚の近くに埋葬され、その後「陸奥家墓所」となって行きました。

次回、その写真をアップいたします。

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