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赤穂義士ゆかりの地 6

赤穂義士ゆかりの地 6

赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所(吉祥寺)   天王寺区六万体町1-20

 浅野内匠頭長矩は、寛文7年(1667)、浅野長友の長男として江戸に生まれました。寛文11年(1671)3月、父・長友が藩主に就任して3年後の延宝3年(1675年)1月19日に長友は死去します。

 同年3月25日、長矩が9歳で播州浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となりました。

 同年4月7日、第4代将軍徳川家綱に拝謁。延宝8年(1680)8月18日に従五位下に叙任し、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられました。

 天和3年(1683)2月、勅使饗応役を拝命し、高家吉良上野介義央が勅使饗応指南役として付きましたが、無事に役目を果たします。しかし、元禄14年(1701)2月4日、2回目の勅使饗応役に任じられました。3月14日は幕府の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日でしたが、儀式直前、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)において、長矩が吉良上野介義央に対して脇差でもって刃傷に及びました。

 第5代将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即断します。

 身柄は田村右京大夫(陸奥一関藩主)の屋敷に預けられ、同屋敷の庭先において、夕方、幕府検死役の立会いのもと、切腹しました。享年35。遺骸は高輪泉岳寺に埋葬されました。

 吉祥寺は、大坂における浅野家の菩提寺で、参勤交代の際はこの寺に立ち寄ったといわれ、寺坂吉右衛門が義士の切腹後、建碑を依頼したと伝えられています。

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