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30.残念さん

長州藩ゆかりの史跡「残念さん」(長州藩士 山本文之助の墓)  尼崎市杭瀬南新町4-9

 元治元年(1864)7月19日に勃発した「禁門の変」で長州藩は大敗しました。

 長州藩士である山本文之助は参戦していましたが、敗北のため京都を脱出し、西国街道を通って西へ水路を使い敗走しました。

 尼崎藩は幕府の親藩にあたりながらも尊王派であったため、尼崎藩領にある大物北ノ口で上陸しました。しかし、山本は尼崎藩に捕えられ投獄されます。

 山本は期待を裏切られた思いで「残念、残念」を繰り返し、その日のうちに自害します。

 元治元年7月20日、山本文之助29歳でした。

 翌年の元治2年(1865)2月(※同年の4月8日から慶応元年に変更)頃から山本文之助の墓が「残念さん」と呼ばれるようになり、大坂の町人に信仰が深まっていきました。

 参拝し願いをかけると叶えられるという噂が広まりました。それも同年の5月にはピークになり、大坂から尼崎の道には参列者の列が続いたそうです。

 長州征伐のため将軍自ら大坂城に入城する予定になっていたため、幕府は5月17日以降残念さん参りを禁じました。

 大坂町人平野屋武兵衛の書いた諸記録のうち「日加栄」の慶応元年5月16日に次のような記載があります。

 「五月一六日、未明より尼ヶ崎町家之墓所ニ、昨年京都より長州江之落武者、尼ヶ崎入口ニて横死の霊魂残り、いつとなく此墓所江立願すれバ、病氣にかきらず、残念なることさへ立願すれバ、願成就のよしにて、諸方より大くんじゅのよし、珍ら敷、忰駿七召連見物に参り候處、野里の渡しにて早くも日光御上りに、最早六拾人の余も渡り候よし、渡し守の咄しに、朝五ツ時よりハ所より番人出候よし、始め青竹にて誠にていねひきれいにかきいたし、土墓にいたし有之候へとも、あまりあまり多人数参詣にて、かきを取のけ、セいし候へとも、中ゝ左様いたすほどさかんに相成り、塚もなく、少々おぼひ候上、土砂の高ふに相成候土砂を持帰り、(途中省略) 長州の横死の人の名前わかり不申候、年比ハ弐拾三四才位のよし(途中省略)人こぞりて、残念様、残念様 唱へて立願のよし、(以下省略)」 

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