21回目
幕末維新の播州赤穂藩
大阪裁判所のあった位置(現在の大阪市市役所)は、播州赤穂藩の蔵屋敷がありました。
「播州赤穂藩」といいますと、大半の方が大石内蔵助以下四十七士の討入りを連想される事と思います。しかし、この場所にあった赤穂藩は、浅野家の蔵屋敷ではありません。ご存知のように、浅野家は元禄期に改易となり、2年間は幕府直轄領となっていました。その後、永井家が4年治めて後、宝永3年(1706)、森 長直が2万石として入封します。森家は、織田信長に仕え、小姓として活躍した森 蘭丸の末弟 森 忠政の末裔にあたります。この森家が幕末まで赤穂藩を統治します。
<赤穂勤王党による文久事件と高野の仇討ち事件>
幕末の赤穂藩は、佐幕派と勤王派に分裂し、藩政の勢力争いをしていましたが、佐幕派が実権を握り、勤王派を政治の場から引きずり下ろしました。
これに反感を持った勤王の過激派 西川升吉は「赤穂勤王党」を組織し、佐幕派のリーダーである家老 森 主税、その用人 村上真輔 2人の暗殺を謀ります。
文久2年(1862)12月9日夜、13人の刺客が2人の命を奪うことに成功します。
13人の刺客は藩外へ逃れ、大坂の土佐藩蔵屋敷において保護を受けました。
文久3年(1863)8月18日の政変、続いて蛤御門の変により、赤穂藩では勤王派の勢力が衰えていきます。
そして明治維新を迎え、藩庁は、文久事件に関わった両派を仲直りさせようと努めます。
文久事件で暗殺された村上真輔の子孫中心に、かつての刺客たちに対する復讐計画が企てられました。これを察知した藩庁は、生き残っていた刺客6名に、高野山にある藩主森家の墓守を命じます。復讐を誓う村上家の子孫7名は、一足早く高野山に行き、6人の到着を待ち伏せして、明治4年(1871)2月30日、仇討ちを成功させます。
これを「高野の仇討ち」といいます。
赤穂藩は、「四十七士の討ち入り」だけでなく「高野の仇討ち」と、2回もの仇討ち事件を起こしていることになります。
さて、仇討ちの現場に近い道路脇に「殉難七士の墓」が建てられ、討ち取られた6名(かつての刺客)は、ここで静かに眠っています。
なお、6名なのに何故七士なのかといいますと、6名のうちの一人の弟が、文久事件とは全く無関係でありながら勇敢に闘ったため、復讐組が誤って斬ってしまったからだそうです。
討ち取った7名は、丁重な待遇を受けていましたが、司法卿 江藤新平は、死刑に値すると判断します。最終的には、大阪裁判所は、死罪は免じ禁固刑の判決を下しました。
同日、太政官より「仇討ち禁止令」が出されます。(明治6年2月7日)
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