OSAYAN情報

フォト
無料ブログはココログ

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

明治天皇(伏見桃山)御陵は秀吉期の伏見城本丸跡

明治天皇陵①

 京都市伏見区桃山にあり、JR奈良線、近鉄京都線、京阪本線から行けるが、最も近いのがJR桃山駅。

 私の母校は深草にあるR大学で、陸上競技部に所属していました。1年生の秋まで深草キャンパス内の狭いグランドしかなく不便でした。山科区に南大日グランドができるまで、ここ桃山御陵まで深草からミニマラソンをして、体操・ストレッチのあと坂道(しかも下が砂利道で滑りやすい)の下から上までやく200mのインターバル(約8~9割の力を出して走り、ゴールにたどり着いたらスタート地点に戻ってまた「よ~いスタート」で走る。

 先日の大掃除のおかげで当時の「練習日誌」が出てきた。あった!昭和58年9月17日(土)「桃山インターバル」という文字が・・・

 坂道ダッシュを7本、ダッシュ3本、補強をしたうえで、帰りは深草までまたミニマラソン。

 このときのコメントが「トップ賞は初めから3本以上取ろうと目標にして走った。4本トップをとったが残りの3本があまりにも力を抜いてしまった。特に2~4本目トップをとった後の5本目は全くだめだった。これは、やはりまだ、上体(筋力など)が弱いからだろう」と書いています。

 下の写真が桃山御陵の参道です。ここで走ったました。

Dsc034320003 Dsc034330002 Dsc034350001

桂小五郎はダルマ好き?

初めて史跡めぐりイベントに参加した資料

 土曜・日曜で引越し以来の大掃除を行ったところ、私が大阪龍馬会に入会して初めて参加したい史跡めぐりのイベントテキストが出てきました。

 タイトルは「龍馬墓前祭・桂小五郎はダルマ好き?」です。

 講師は大阪龍馬会幹事のK浦さん。通称「半次郎または半ちゃん)

 平成7年(1995)11月12日実施されたものでした。

 朝の10時(だったと思う)に八坂神社前の集合場所に、どんな人がいるのだろうかと恐る恐る参加したのを覚えています。

 事務局長のHさんが温かく迎えてくれました。

 全員集合まで少し待っていると、今思えばサプライズだったのですが、故西尾秋風先生による辻説法を聴講できました。熱く語る先生は、てっきり大阪龍馬会の会長参加と思いましたが、そうではなく辻説法が終わると違う場所へ行かれました。

 坂本龍馬のお墓まいりを済ませて、そのあと午後から髙瀬川沿いにある史跡をまわるイベントだったのですが、当時タレント養成所に通っていましたので、午後からは失礼をさせていただきました。しかし、これもサプライズ。事務局長のHさんが、当時はおくに潜まっていた「中岡慎太郎寓居跡の石碑」と「岡田伊蔵による刀傷」を教えていただき感激して帰ったのを覚えています。

 テキストを見ると碑のない「平野国臣寓居跡」など石碑の無いところが紹介されていて、大阪龍馬会に入会してよかったと思った一日でした。

 そんな私が、その5年後、大阪龍馬会の史跡めぐりイベントの講師を仰せつかるなんて夢にも思っていませんでした。

大阪龍馬会

http://osakaryomakai.com/

赤穂義士ゆかりの地 8

赤穂義士ゆかりの地 8

赤穂義士 大石内蔵助良雄像(吉祥寺)  天王寺区六万体町1-20

  赤穂藩浅野家の家老。忠臣蔵の主役・指導者として有名です。

 藩主浅野長矩が切腹、領地没収となると、家中を統率して浅野家再興を図ります。

 その望みが絶たれた翌年、赤穂義士の首領として、主君浅野長矩の敵・吉良上野介義央を討ちました。大石自身は、幕法違反として肥後藩お預けとなり切腹しましたが、浅野長矩の弟大学が五百石の旗本になり浅野家再興は別の形で実現することになります。

 播州赤穂藩は一時城代に龍野藩主 脇坂淡路守安照を任命し天領としましたが、永井家が藩主となり、その4年後、森欄丸の子孫にあたる森家が明治維新まで藩主となります。

Pict82860001 Pict82870002

赤穂義士ゆかりの地 7

赤穂義士ゆかりの地 7

赤穂義士四十七士墓所(吉祥寺)  天王寺区六万体町1-20

 江戸城松の大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷に及び、長矩は即日切腹、藩はお取り潰しの裁断に対し、吉良上野介義央には何の咎めもありませんでした。

 家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは幕府の裁定を一方的なものであると不満を持ち、元禄15年12月15日(1703年1月31日)、47人の赤穂浪士は吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、吉良上野介義央を討ち果たすことに成功しました。

 「赤穂義士ゆかりの地6」でご紹介した浅野内匠頭長矩墓所と同じ場所に大石内蔵助ほか赤穂義士の墓碑があります。

085 087 088 089 090

赤穂義士ゆかりの地 6

赤穂義士ゆかりの地 6

赤穂藩主 浅野内匠頭長矩墓所(吉祥寺)   天王寺区六万体町1-20

 浅野内匠頭長矩は、寛文7年(1667)、浅野長友の長男として江戸に生まれました。寛文11年(1671)3月、父・長友が藩主に就任して3年後の延宝3年(1675年)1月19日に長友は死去します。

 同年3月25日、長矩が9歳で播州浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となりました。

 同年4月7日、第4代将軍徳川家綱に拝謁。延宝8年(1680)8月18日に従五位下に叙任し、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられました。

 天和3年(1683)2月、勅使饗応役を拝命し、高家吉良上野介義央が勅使饗応指南役として付きましたが、無事に役目を果たします。しかし、元禄14年(1701)2月4日、2回目の勅使饗応役に任じられました。3月14日は幕府の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日でしたが、儀式直前、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)において、長矩が吉良上野介義央に対して脇差でもって刃傷に及びました。

 第5代将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即断します。

 身柄は田村右京大夫(陸奥一関藩主)の屋敷に預けられ、同屋敷の庭先において、夕方、幕府検死役の立会いのもと、切腹しました。享年35。遺骸は高輪泉岳寺に埋葬されました。

 吉祥寺は、大坂における浅野家の菩提寺で、参勤交代の際はこの寺に立ち寄ったといわれ、寺坂吉右衛門が義士の切腹後、建碑を依頼したと伝えられています。

Pict82890001 Pict82900002 Pict83000004

 Pict83020003

赤穂義士ゆかりの地 5

赤穂義士ゆかりの地 5

矢頭長助・右衛門七墓所、矢頭右衛門七顕彰碑   北区堂島3-3-5(浄祐寺)

<矢頭長助>

 赤穂藩に25石5人扶持中小姓勘定方として仕えていました。元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩の刃傷事件後、開城手続の際、家老大石内蔵助良雄の補佐役として活躍しました。

 仇討ちには当初から参加する意向でしたが病で倒れ、元禄15年(1702)7月28日に行われた「円山会議」には、子の右衛門七を代理で出席させました。同年8月、大坂にて亡くなります。

 臨終の際、右衛門七に自分の腹巻を与え、父の分まで働いて、亡君の仇を討ってほしいと遺言したといいます。

<矢頭右衛門七>

 17歳のとき、父の遺志を継ぎ、仇討ちの同志に加わります。吉良邸討入りでは表門を担当しています。引き上げ後の泉岳寺では美男紅顔であったため僧侶たちに人気があったそうです。

 討入り後、水野監物忠之に御預けとなり、元禄16年(1703)2月3日に切腹しました。

 享年18歳。

Pict79010001   

矢頭右衛門七の顕彰碑が浄祐寺境内にあります。「矢頭教兼碑 明治元年十一月建 河野逸撰文 小寺静書」と記載されています。この顕彰碑は東福寺別院(北梅田町)にありましたが、大火によりこちらに移されました。

Pict78980002_2

 

 

 

赤穂義士ゆかりの地 4

赤穂義士ゆかりの地 4

大石内蔵助良雄寓居跡  福島区福島1-4付近

  暁 鐘成著の「攝津名所図會大成 其之ニ」に忠臣蔵で有名な「大石良雄寓居跡」が次のように記載されています。

  浄祐寺の西梯起寺裏にあり、傳云(つたへていふ)  此所原天野屋利兵衛所持のざしきなりし故に良雄赤穂退居の後すべらく志バらく此に寓せしといふ今尚四方佛の手水鉢あり是その時よりの器なりとぞ一説に此邊をいにしへより鵲の森といふよし名義詳ならず

  「梯起寺」ハすでに明治期には所在していませんでしたので、現在もある「浄祐寺」を手がかりに、また、長岡藩蔵屋敷の真北に「梯起寺」にあったことなどを考慮し推定地をご案内いたします。

  Dsc0026510002

Dsc002800001

「ブラタモリ」日本橋

NHK「ブラタモリ」日本橋を観て

タモリによる江戸期の中心地「日本橋」のブラ歩きを観ました。

歴史探索に何か共感するものが数多くあり、楽しく観ています。

気になるところがあれば、すぐにそこ(店や会社や一軒家)に行って話しを聞く。

微妙な地形の違い。日本橋ににあった焼夷弾の痕跡など、大阪で史跡探訪を行っている私と非常に重なるところが多いです。

刃物の「木屋」ではご自身の包丁を持参するところは、すでにどこを回ってどこで何するかを計画して行ってますね。

そして、新しい発見をする。これが史跡探訪の醍醐味じゃないかと思います。

今、来年の「大阪旅めがね歴史プレミアムツアー」で「街道を歩く」を企画していまして、

旧街道を取材し始めています。本当に面白いですね。

旧街道は現在でも一般道としてほとんど残されています。そのかわり、部分的に一方通行のところがあります。

街道筋の家には立派な門や屋敷や蔵。そして手入れされた松の木がたくさんあることがわかりました。

大坂の里程元標の地は、現在梅田新道ですが、江戸期は高麗橋でした。高麗橋から京街道がスタートし三条大橋へ。三条大橋から江戸日本橋まで東海道が通じていました。

大坂の高麗橋も立派なつくりです。高麗橋の西詰めにある「澁谷利兵衛」という老舗は享保9年創業といいます。高麗橋近くにも三井や鴻池など豪商が多く商いを営んでいました。

土・日は大掃除

OSAYANのひとりごと

明日、あさってと家の大掃除。

恥ずかしながら、2007年5月に新築の住居に転居したにもかかわらず、ダンボールの荷物が約8個ほど残されたままで、部屋の半分を占拠したままです。

子供も大きくなってきたのでいよいよやらざるを得ない状況。

おさ姫はおかげさまでずいぶん大きくなり、荷物を片付けたら子供部屋になる予定です。

Dsc032470001

赤穂義士ゆかりの地 3

赤穂義士ゆかりの地 3

赤穂義士 原 惣右衛門墓所(長久寺) 中央区谷町8-2-49

 赤穂義士47士のうちの一人原 惣右衛門は、播州赤穂藩江戸在勤を務める藩士でした。

  金奉行、腰物方を務めました。

浅野家お取り潰しの後は、一時大坂に隠れ、江戸に出てから和田元真と名を変え、医者と称しました。

この長久寺にある原 惣右衛門墓所は、惣右衛門の姉である琴の子 田中常沢により墓碑が建てられました。

 Pict84580001 Pict84590002

坂本龍馬を知ろう!

坂本龍馬を知ろう!

 来年の大河ドラマ「龍馬伝」の放映に伴い、大阪龍馬会の発起人で事務局長である林 慎吾氏が講師を務め「-大河ドラマ 龍馬伝-を楽しむ講座」が12月より毎月第3火曜日に開講されます。

 龍馬に詳しいたくさんの著名な教員・歴史家・作家・学芸員などがいらっしゃいますが、林さんの本職はほとんど歴史と関連のない仕事をされています。

 しかしながら、龍馬の知識はプロには負けてなく、難しい話をされません。

 いつもニコニコしながら、わかりやすい丁寧な言葉を選び、聴講者にとっては非常に理解しやすい方です。

 よろしければ、ぜひご応募ください。

 詳しくは下記アドレスまで

http://blog.goo.ne.jp/ryouma1026/e/a9747189fc4916259df75ac279ee76a0

 

幕末の志士が歩いた大坂 36 慶応3年20日頃の様子

幕末の志士が歩いた大坂 36回目

慶応3年11月20日頃の大坂での様子

この頃、薩摩、長州、土佐などが京都・大坂に向け兵を集結をしはじめます。

11月19日、土佐藩 後藤象二郎が大坂に到着。

11月20日、イギリス外交官アーネスト・サトウが土佐藩大坂蔵屋敷を訪れ後藤と会談。

Pict61920001

西郷吉之助が同日(20日)、大坂に到着。

11月21日、アーネスト・サトウら英国人の宿泊所がこれまでの「本覚寺」を引き払い、大坂城内二の丸にある板倉勝静の屋敷跡に引越しをする。003

同日、サトウが西郷を訪ねています。

11月22日、薩摩藩主 島津忠義を擁して西郷らは3000人の兵を率いて23日入京。

11月25日、土佐藩山内容堂が大坂に到着。

11月27日、サトウと伊藤俊輔が会談。

赤穂義士ゆかりの地 2

赤穂義士ゆかりの地 2

赤穂義士 大高源吾墓所(薬王寺)          中央区中寺1-3

 赤穂義士47士のうちの一人である大高源吾は、播州赤穂藩20石5人扶持、中小姓、膳番元方、金奉行、腰物方を務めました。
 浅野家お取り潰しの後は、脇屋新兵衛と名を変え、吉良邸の内情を探る役目を務めました。茶道と俳諧を嗜み、榎本其角とも親しかったようです。
 天川屋利兵衛(天野屋利兵衛のモデルと伝えられる人物)によって墓碑が建てられました。
 墓碑の土台には大高源吾が切腹時に詠んだ句が記載されています。

 梅でのむ茶屋もあるべし 死出の山

Pict846210001 Pict84600002

大坂冬の陣 

大阪城

大坂冬の陣

 慶長19年(1614)11月19日、木津川口の砦において戦闘が始まりました。(木津川口の戦い)。

 同年11月26日、鴫野・今福で「鴫野・今福の戦い」があり、11月29日、博労淵の戦い、野田・福島の戦い博労淵、野田・福島でにおいて激しい戦闘が行われた。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収します。

 豊臣方は籠城する作戦に切り替えました。

 12月3日~4日、南に接近した徳川軍を、おびき寄せた上で、新たに設けられた真田丸から真田幸村率いる軍勢が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えました。(痛快!!)

 その後、徳川軍が大砲使って豊臣軍を眠らせない戦略に出て、最終的に徳川が田に有利な条件で和議が結ばれました。

Dsc023280001  004

006

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の予告編

NHK大河ドラマ「龍馬伝」の予告編

 先日、大河ドラマ「天地人」の最終回を終えた後、「龍馬伝」と「坂の上の雲」の予告編が放映されましたが、皆さんご覧になりましたでしょうか。

 まるで映画の予告編を観ているようで、両方とも楽しみです。

 「龍馬伝」では土佐藩の身分制度、上士と郷士(その間に白札あり)を泥臭く描かれるような気がして楽しみにしています。幕末四賢候の一人である元土佐藩主 山内容動(ヤマノウチではなくヤマウチです)がいかに愚候かがお分かりいただけると思います。 この人物によってどれだけの優秀な人材を失ったか知れません。

 予告編がHPで公開されています。

 http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/

 ちなみに「坂の上の雲」の予告編は

 http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/movie/#02

 です。

 

赤穂義士ゆかりの地 1

赤穂義士ゆかりの地 1

赤穂義士 堀部弥兵衛・安兵衛墓(福泉寺)  中央区中寺1-36

 赤穂義士のうち、父子で仇討ちに参加した堀部弥兵衛・安兵衛の墓が福泉寺にあります。1060001
全国各所に両名の墓があります。

 堀部安兵衛は非常に有名で、切腹した松平久松隠岐守定直三田中屋敷跡は、現在イタリアの大使館になっていて、赤穂義士に感銘を受けたイタリア大使が、大使館内の庭にこの地で切腹した赤穂義士の名を連ねた顕彰碑建てておられます。

 NHK木曜日22時から「ブラタモリ」という番組が放映されていて、タモリが東京都内の隠された史跡等を巡る番組なのですが、この顕彰碑が紹介されていました。一般では見れないですよね。ちなみに、大石内蔵助の子 大石主税も松平久松隠岐守定直三田中屋敷で切腹しています。

 

 堀部安兵衛

 越後 新発田藩 中山弥次右衛門の長男として誕生した中山安兵衛は、元禄元年(1688)、江戸へ出て小石川牛天神下の「堀内源太左衛門の道場」に入門。元禄7年(1694) 、同門の菅野六郎左衛門による高田馬場での果し合いに助太刀を買い、相手方3人を斬り倒し有名になりました。(高田馬場の決闘)。これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛を婿養子にと希望し、剣客中山安兵衛は同年閏5月26日堀部家に入りました。中山姓のままで養子縁組してもよいというという許可をもらっていましたが、弥兵衛が隠居後堀部姓を名乗りました。吉良家仇討ちについてはご存知のとおり父子ともに参加しています。

伊庭八郎宿泊の地(大仙寺) 【幕末の志士が歩いた大坂 35】

幕末の志士が歩いた大坂 35

伊庭八郎宿泊の地(大仙寺)  中央区谷町9-5-6

 第14代将軍 徳川家茂の警護として付き従うため幕臣 伊庭八郎は、元治元年(1864)5月に江戸、京都を経て大坂に到着しました。
 伊庭八郎は上洛時の記録として「御上洛御共之節旅中并在京在坂中萬事覚留帳」という日記を残しましたが、八郎の死後「征西日記」と改題されました。
 その日記によりますと、元治元年(1864)5月7日、昼に大坂の京橋口に到着。
 将軍家茂はそのまま大坂城に入城。八郎は谷町の大仙寺が旅宿であったとされています。
 5月7日から6月5日まで在坂。その間、大坂見物、奈良見物に行ったことを日記に書き残しています。
 この滞在期間中、大坂では5月20日に大坂西町奉行所与力の内山彦次郎が何者かに暗殺される事件がおこり、出発の6月5日には京都で池田屋事件が起こっています。

<幕臣 伊庭八郎>
 弘化元年(1844)、講武所剣術師範伊庭軍兵衛の長男として生まれます。八郎は文武共に優れ、「伊庭の小天狗」と称されていました。
 慶応2年(1866)、新設の遊撃隊に参加。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いが始まり、遊撃隊員として従軍します。4月11日、江戸開城と共に八郎ら遊撃隊士36人は脱走します。
 請西(じょうざい)藩士約70名と共に「新生遊撃隊」を結成し、新政府軍と対峙しました。
 敗戦を繰り返し五稜郭にたどり着きます。五稜郭で作られた「蝦夷共和国」の歩兵頭並に就きます。明治2年(1869)、新政府軍の攻撃により重傷を負います。
 新選組隊士 田村銀之助が伝えた内容によりますと、八郎は病床の中、モルヒネを飲み静かに息を引き取ったそうです。「八郎の遺体は土方歳三の側に埋められた」と語っています。

<脱藩した請(じょう)西(ざい)藩主 林 忠崇(ただたか)>
 慶応3年(1867)、京都で伏見奉行の職にあった林 忠交(ただかた)が病死し、19歳の忠祟 (ただたか)が請西藩の藩主となりました。就任直後に戊辰戦争が起こり、忠祟は旧幕府遊撃隊の伊庭八郎 ・人見勝太郎の両名と手を結びます。
 慶応4年(1868)閏4月3日、徳川家再興を掲げ自ら脱藩しました。藩兵70名と遊撃隊36名を率い、総督として官軍に立ち向かいました。
 箱根・奥州と転戦しましたが9月20日仙台で降伏します。
 全国でただひとつ請西藩は取り潰しとなりました。
 10月に東京へ護送された忠祟は肥前国唐津藩主・小笠原長国邸に預けられ禁固の身となります。

 明治5年(1872)、禁固が解かれ請西に戻って農業に専念します。
 明治27年(1894)、華族の礼遇を受け、昭和16年(1941)、93歳にて永眠しました。

源平のゆかりの地 一の谷

先日、NHKで源平ゆかりの地 一の谷を訪ねてが放映されていましたが、皆さんご覧になりましたでしょうか?

熊谷直実VS平敦盛の名場面。敦盛が持つ青葉笛の複製と再現した笛での演奏。琵琶による平家物語の弾き語り。一の谷の逆落し。さまざまな名所が紹介されていました。

再放送があればぜひ御覧ください。

特に感じ入ったのは、案内されていた講師が力強い源氏と崩れ行く平家をとりまとめたのが松尾芭蕉である。というところが非常に印象に残りました。

魅力的な大阪城

「大阪旅めがね」での歴史ツアー「大阪城周辺ツアー」を催行

http://www.digibook.net/q/gAGsEMK5dzQWXOPH/

豊臣期の大坂城遺構

石田三成邸  中央区大手前2-1-88(大手前学園)

大手前学園のビルが建っている辺りに石田三成の邸がありました。

同学園は昭和56年4月より校舎増設に伴い、大阪城に関する発掘調査を行ないました。

数々の遺物遺構が見つかった中で、石田三成邸にあったとされていた井戸の遺構が見つかっています。

その井戸の石の一部が同学園のビル玄関に飾られています。

Pict56290001

坂本龍馬像の京都出張

坂本龍馬像の京都出張

11月15日の夕方にはJR京都駅前で「よさこい音頭」あ披露されていた。

こちらにも長崎から高知から下関からこられた方々がテントでじもとをPR。

高知はなんと桂浜にある龍馬土産店前にある「坂本龍馬像」を移転され設置されていた。

http://www.digibook.net/q/bIXQVUQ9vLZOWjOD/

大阪の史跡紹介

大阪市中央公会堂 北区中之島1-1-27

 明治44年(1911)に株式仲買人である岩本栄之助の寄付(100万円)により、大阪市中央公会堂の明治紀念標があった地に、大正2年(1913)着工されました。
 設計は、懸賞付き建築設計競技(指名コンペで13名が参加)により、29歳の岡田信一郎の案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡 安が実施設計を行いました。
 大正7年(1918)に竣工され市民の集会場として親しまれ、時にはロシア歌劇団の公演、ヘレン・ケラー(アメリカの盲(もう)聾唖(ろうあ)の著述家、社会福祉事業家)の講演会などが行われたこともあります。
 平成11年(1999)から平成14年(2002)まで保存・再生工事が行われ、同年11月にリニューアルオープン。

 平成14年(2002)12月26日、国の重要文化財に指定されました。
 岩本栄之助は、第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま大正5年(1916)に自殺しました。

 岩本栄之助の遺品が、中央公会堂の地下1階に展示されています。
※大阪城天守閣復元費用47万円

甲斐バンド

甲斐バンドについて

「大坂の歴史」とうたっておきながら、私事で申し訳ありません。

先日、アリスの再結成コンサートをテレビで観ました。

60歳でよく頑張るなぁと思います。最初はこのアリスの曲をよく聴きました。

ものすごく暖かいコンサートは少しも変わっていませんでした。お客様層はやはり50~60代だったでしょうか。「Going Home」で徳光さんが泣きながら歌っているところが映されていました。 

そして甲斐バンド。今ツアーの真っ最中。最初は友人の勧めで聞きだしました。友人は「翼あるもの」「この夜にさよなら」「№1のバラード」がいいと言っていました。

切ない歌詞の中に甲斐さんの声が勇気を奮い立たせる感じを持ちました。

甲斐さんの歌声が自分にとって波長が合う感じがします。

スタート時のバックミュージックが毎回同じではないですがいいですね。

「今夜も精一杯やるからね! やるよ!」から始まる。

初めて行ったときは、最初が「きんぽうげ」なのに皆さん座ったまま。スタンディングオーベーションになるのは最後の方の「氷のくちびる」からぽつぽつ立ち上がるという感じでした。

今は違いますよね、最初のバックミュージックが鳴りだしたときから立ち上がりますよね。

甲斐さんのファンって昔からシングルになった曲よりもシングルになっていないアルバムの曲が好きな人が多いですね。ですから当初は、「HERO」を歌わない時期、「裏切りの街角」を歌わない時期がありました。客はそれで満足なんですよね。

大学の学園祭で委員長をしていた友人Kとは同じ陸上競技部でした。彼が最後の締めの曲に「レイニー・ドライブ」でした。

取り留めのない内容になってしまいましたが、時々、書いていこうと思います。

大坂城 豊臣期の石垣

大坂城 豊臣期の石垣 中央区大手前1-3-20 (追手門学院小学校)

産経新聞では毎週火曜日夕刊に「古都おおさか再生 上町に学ぶ」が連載されていますが、11月17日は学校法人追手門学院の学院長 鈴木多加史先生に寄稿で「大坂城跡」というテーマでした。

ご存知の方が意外と少ないのですが、現在の大阪城のほとんどは徳川期に作られたものです。石垣は計算されて詰まれたもので立派なものですが、豊臣期の大坂城はすべて、土の中に埋められました。現在の天守閣の東にある配水所の下を掘れば、豊臣期の天守閣のい工が出てきます。したがって、現在、豊臣期の遺構を見ることができるのは、ごくかいぎられた場所にある石垣跡と太閤下水でしょう。

その、豊臣期の石垣を地上で見ることができるのは、地下に眠っていたものを地上に上げたものです。

今回の新聞で紹介された石垣は、追手門学院小学校の地下にある(地下駐車場ではなくその下の機械室の写真です。(非公開)

Dsc017470001

追手門学院では上町プロジェクトに取り組んでいます。

http://www.otemon-osakajo.jp/uemachi/index.html

インフルエンザは歴史の話になると吹っ飛ぶ?

今回は砕けたコメントをいたします。

先日、薄着で約2時間冷たい風を受けながら(仕事ではありません)、外に立っていて翌日より発熱。朝より寝込んでいた。

しんどいながらも、M先生より歴史についてのご質問および調査のお願いを頂戴した。

熱があるにもかかわらず、そのときだけ元気だった。

昼には38.5度。医者へ。新型インフルエンザかどうか調べてもらう。新型ではなかったが、発熱より12時間から24時間経過していないので可能性はありとのこと。

そして今朝、37.1度に熱が下がっていて、堰がやや出るくらい。

そこで昨日の、M先生の依頼について電話で調査して結論が出た。

M先生に報告。病人とは思えない口調で応対できたが、昼過ぎに再度、熱があがり38度。

勤務先からメールをいただいていたので、返信をし、そのついででこのブログに書き込みをしています。

みなさん、どうかインフルエンザなどに気をつけてくださいね。

慶応3年11月18日

慶応3年11月18日 新選組「油小路の血闘」

11月15日に坂本龍馬及び中岡慎太郎遭難の実行犯は新選組であるという噂が流れ、陸援隊士に間者として潜入していた村山謙吉を16日に捕縛し、尋問をしています。

そのような中、新選組局長の愛妻宅に訪れた同組離脱者、御陵衛士隊長 伊東甲子太郎が、帰宅途中、待ち伏せていた新選組隊士により暗殺。さらには死体を引き取りにきた藤堂平助ら御陵衛士隊士に、新選組隊士らはさらに待ち伏せによる切込みで藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が討死しました。

これにより、新選組を離脱するとこのような眼にあうことを隊内に知らしめることとなりました。

大河ドラマ「新選組!」が放映された年に、11月18日お墓まいりをしました。

http://www.digibook.net/q/bAPYVkYBmDZ-XXxC/

慶応3年11月17日

慶応3年11月17日 中岡慎太郎絶命

同年同月15日、刺客に襲われ会談していた坂本龍馬(土佐海援隊長)と中岡慎太郎(土佐陸援隊長)重傷を負わされた。ほどなく龍馬は息を引き取った。慎太郎は「不覚じゃった」といいながら回復するかに見えたが、後頭部に受けた傷が致命傷で、息を引き取った。

11月15日近江屋で二人は何を話していたのか。

龍馬の構想と慎太郎の構想は同じではなく、談笑するのが少なく激論を交わしていたかもしれないし、同郷のよしみで今夜ぐらいはゆっくり語り合おうということだったかもしれないが、真相は不明。龍馬とは3歳若い慎太郎は、龍馬に負けず全国をよく歩いた。

京都の霊山護国神社には、両名のお墓が並んで建っている。また、両者の小さな銅像も建っている。龍馬が目立つ分慎太郎の知名度が低いが、維新功労者の大役を発揮したと思う。

中岡慎太郎記念館は行ったことがあるが、銅像は京都のものしか見たことがない。

一度、言ってみたいと数年前から思いながら果たさずに今日に至っている。

Dsc031030002

2009年11月15日(京都)

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の日

慶応3年11月15日、坂本龍馬が暗殺された日。

京都ではいくつかの催しや史跡ツアーが催されていました。

11月15日の午前中の模様を写真にて紹介します。

http://www.digibook.net/q/3IXQNoQJuHRSGqGz/

霊山護国神社の坂本龍馬・中岡慎太郎墓所、護国神社境内には京都高知県人会などのテントが「龍馬祭」が1日かけて開催されるとのこと。会長と名刺交換する。

龍馬・慎太郎遭難の地(近江屋跡)では「坂本龍馬・中岡慎太郎 慰霊祭」が行われていた。

テレビ局が取材に来ていた。

坂本龍馬寓居・土佐海援隊京都詰所である酢屋では、酢屋に伝わる坂本龍馬について説明と振舞い酒を行われていた。店前から2階を見上げ「才谷さ~んと呼びかけたら龍馬が窓から顔を出したなどという説明があった。

午後からは大阪龍馬会のイベント(午前中龍馬の墓前祭があった)に合流し、嵐山へ。

嵐山では、勤務先の前学院長であるG先生に偶然お会いしご挨拶することができた。

11月15日

11月15日

昨年(2008年)の11月15日に演劇集団キャラメルボックスのお芝居を観た。

妻の大好きな劇団である。

私は、約10年前、「また会おうと竜馬が言った」を観たのが最初で、そのときに加藤昌史氏の存在を知った。製作、選曲などの裏方さんであるが、前説を当時は毎回行っていた。

そういえば竜馬役は上川隆也さんだった。

そんな加藤さんと初めて会話したのが、平成10年3月31日。近鉄アート劇場でおこなわれた「BRIDGE」というお芝居の終了後。選曲がすばらしく、加藤さんに思わず「すばらしい選曲でした」と声をかけた。それから10年後の11月15日。開演前ロビーでグッズの販売を行っていた加藤さんに再度声をかけた。「BRIDGE以来、加藤さんのファンです」すると加藤さんは「BRIDE!・・何年前やろう」その際にサインをもらった。

キャラメルのお芝居は、話の展開や役者の癖が強く、いつもよく似ているのがわかっていながら、人と人との絆や、人間の命の大切さなどを振り返らせてくれる。

今年も面白そうであるが、なにぶん子供ができてから行くのが困難になった。

最近、同劇団のメンバーがCMやドラマに出演しているのをよく見かける。

Dsc0309310001

慶應3年11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難

慶應3年11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難

今年も龍馬の命日がやってきました。

実際は西暦1867年12月10日火曜日です。

暗殺者の定説は、佐々木只三郎ら「京都見廻組」の者が実行したといわれています。

おそらくそうだと思いますが、陰で操ったのは誰かまたはどの組織かとなると、まだまだなぞめいたところがあります。

中岡慎太郎の寓居先「菊屋」に峯吉という人物がいて、遭難の日、龍馬から「軍鶏を買ってきてほしい」との依頼を受け、近江屋から買い物に出かけます。その出かけている間に惨事が起こっていたということになります。

何年か前に、菊屋峯吉のご子孫の方のお話を聞くことができました。

「店を出て暗闇の中、誰かがすれ違ったような気配がした」と峯吉は話しており、代々伝わっているようです。峯吉も斬られていたかもしれません。

当初、犯人は新選組だと疑われたようですが、新選組はそれどころでなく、離脱した伊東甲子太郎派(高台寺党)を如何に処分すべきかで精一杯だったと思います。3日後の11月18日悲劇が起こります。

龍馬が生きていたらどうなっていたか。(歴史にifは禁物ですが)

龍馬は新政府要職に徳川慶喜を推挙すべきという考えであったため、岩倉卿、薩摩・長州・芸州・陸援隊からは危険視されていたと思われます。

「世界の海援隊でも」という考えがあるならば、大政奉還の時点でその動きが始まっててもおかしくないと思いますが、「新政府綱領八策」などを起草していましたので、政治に関わるつもりだったと思います。

坂本龍馬は好きですが、維新の功労者は龍馬だけでなく、たくさんの大和魂を持った志士たちが命を賭けて働いたからだと思います。

しかし、志半ばで命を奪われた龍馬のことを思うと、何度も涙が出ます。

故西尾秋風先生は常に言っておられました。

「断じて! 断じて! 刺客どもに時効は許されないのであります!」

34.坂本龍馬ゆかりの地 薩万(土佐海援隊大坂詰所)跡

幕末の志士が歩いた大坂34回目

坂本龍馬ゆかりの地 薩万(土佐海援隊大坂詰所)跡② 西区江戸堀3-1-34付近

【土佐海援隊 大坂詰所(薩万跡)について】 
 所在地のヒントとなったのは、薩摩藩蔵屋敷(上屋敷)付近の「水帳絵図」かれです。

 その水帳絵図には、「薩摩品名代 ひ薩摩屋仁兵衛」と表記されており、「薩摩屋」とは表記されていませんが、「薩摩屋仁兵衛(にへい)」であります。

 薩摩屋仁兵衛(にへい)は、薩摩堀川を開削し、天満組惣会所の惣年寄りを務めた商家で、代々「薩摩屋仁兵衛」と名乗りました。薩摩屋仁兵衛が比田氏であったことは、「薩摩屋半兵衛」のご子孫の川端様よりご教示いただいております。

 したがって、西区江戸堀3-1-34付近に「薩摩品名代 太原屋万兵衛」の表記があり、その箇所が以下の史料等と合致するため、その場所が薩万跡であることがわかります。

 坂本龍馬の妻 お龍の回顧録、「岡内俊太郎より佐々木高行あて」の手紙。

 お龍の回顧録から裏が川である。薩万は花屋敷(実際は濵屋敷)に出入りしている。

 「薩万」にはおりせという名の女将がいました。

 お龍の回顧録で「寺田屋のお登勢さんよりもおりせさんの方が、どれ程勤王の人達を助けたか知れません、寺田屋のやうに目に立つ事件が起こらなかつたから、自然世間の注意を惹かなかつたけれども、おりせさんは侠客肌の女で、熱心な勤王贔屓でした。」と語っています。

 また、薩万に陸奥宗光が潜伏していたことも語っています。龍馬の死後、この薩万に宿泊したこともあります。

 「諸事書留」という史料に薩摩藩蔵屋敷(上屋敷)の寸法の記載があります。北側が55間、南側が60.5間、東側が37間、西側が35間のやや台形でした。越中橋の筋(東橋から60.5間と町境の道3.6間を現在の寸法に換算すると116m54cm)から西へ実測しましたところ、薩摩藩邸の西端は、あみだ筋にかかります。したがって薩万跡地も現在のあみだ池筋の北向き車線になります。

http://www.digibook.net/q/hIGgwUKddHR_WuXz/

33.坂本龍馬ゆかりの地 薩万(土佐海援隊)詰所跡

幕末の志士が歩いた大坂 33回目

坂本龍馬ゆかりの地 薩万(土佐海援隊)詰所跡  西区江戸堀3-1-34付近

【土佐海援隊について】

 慶応元年(1864)閏5月に薩摩藩の庇護のもとに発足した浪士結社「亀山社中」から、土佐藩の支配のもと「土佐海援隊」が発足したのは慶応3年(1867)4月(10日頃)でした。

 同時に中岡慎太郎を隊長とする「陸援隊」も組織されています。
(余談ですが、そのおよそ4日後の同年4月14日に長州藩 高杉晋作が病死しています。)

 脱藩罪を許された坂本龍馬が海援隊の隊長に任命され、長崎の貿易商小曾根邸に本部を置きました。武器・軍艦などの兵器の商取引、「閑愁録」などの出版事業など多角的な運営が進められました。そのため、長崎の本部をはじめ、京都・下関・大坂などに詰所(出張所)を設けました。京都の詰所(詰所)は材木商 酢屋、下関の詰所(詰所)は大年寄 伊藤助太夫邸の一室「自然堂」に設けていました。

 大坂の屯所は薩摩屋万兵衛で通称「薩万」と呼ばれる商家に設けました。
「薩万」は人足差入屋・宿屋などの説があります。しかし、これまで史料が少なくどこにあったのか場所の確定がなされていませんでした。

 しかし、水帳絵図があり、その絵図より薩万跡が判明しました。

 (次回へ続く)

 

坂本龍馬の銅像

坂本龍馬の銅像

坂本龍馬の銅像は各地にあります。

http://www.digibook.net/q/bwXsVkQ5nDATGvGG/

Pict59240001

32.薩摩藩御用商人 薩摩屋半兵衛

幕末の志士が歩いた大坂 32回目

薩摩藩御用商人 薩摩屋半兵衛

 薩摩屋半兵衛は、源氏の子孫にあたります。平安時代末期、源 頼政が宇治の戦に敗れ、後裔の親綱が京都嵯峨にある川端に隠れ住んだことから、その後、川端姓を名乗ります。

 元和3年(1617)、川端頼長(川端家第11代当主)は桔梗屋五郎右衛門、紀伊国屋藤左衛門らと共同し、江戸堀川を開削しました。その功績により、川端頼長は惣年寄(大坂町人有力者で構成されていて約10人で合議する役人のような役割)に任命されました。

 第12代川端頼直、第13代頼賢の頃から、薩摩藩との関わりができ、正徳元年(1711)、川端家第15代直英の時、薩摩の国産品である黒砂糖を専売の権利を得ました。

 そのとき、川端家は惣年寄から外され、薩摩屋仁兵衛(比田家)に惣年寄を命ぜられ、両家は永年不和が続いたといいます。

 第15代川端直英は、薩摩藩より黒砂糖取扱いの権利と、「薩」の字を家印とし、以来「薩摩屋」と称することが許されます(「薩摩屋」という屋号を持った商人は十数軒ありました)。

 第16代川端英氏(薩摩屋半兵衛)は、延享2年(1745)、薩摩藩より黒砂糖に加えて菜種子、椎茸、鰹節など取扱いを命じられます。また長州藩、土佐藩にも出入りが許されます。

 その川端家23代目にあたる薩摩屋半兵衛(川端廣長)は、大坂で父祖の家業を継ぎ、薩摩藩出入り御用商人として、薩摩の産物(砂糖、煙草など)を取扱い、薩摩藩邸(江戸堀の屋敷と書かれていることから薩摩藩蔵屋敷の中屋敷と思われます)の鍵保管役を務めました。半兵衛廣長は長崎との商取引をする中で、蘭語習得の必要性を感じ勉強しました。

 24代目半兵衛直廉も父の影響を大いに受け、父子ともに緒方洪庵の「適塾」に通い勉強しました。この薩摩屋23代目半兵衛廣長は、勤王の志士を援助し、邸内に匿ったりもしました。坂本龍馬を匿ったという説が残っています。廣長は、会津藩士に斬られ重傷を負っています。

 薩摩屋24代目半兵衛直廉は、鳥羽伏見の合戦の際、薩摩藩の軍費を整え、貢献しています。ボードウィンと川端家は、蘭語の習得の際、適塾を開塾した緒方洪庵を通じて親しくなりました。

 アントニウス・フランシスカス・ボードウィンと川端家は、蘭語の習得の際、適塾を開塾した緒方洪庵を通じて親しくなりました。浪華仮病院の教師として招聘された蘭医ボードウィンの寓居先に、自身の菩提寺である法性寺を推挙します。

法性寺

http://members.at.infoseek.co.jp/hossyoji/index/

 当時の住職竜見日定師は、ボードウィンを喜んで受け入れます。

 廣長は明治4年(1871)に55歳で、直廉は大正3年(1914)に75歳で他界しています。

 明治期の「資産録」に1位が住友、2位に鴻池と記されていますが、川端家も上位にランクインしているようです。

1140001

 ※情報提供:薩摩屋半兵衛のご子孫である川端直正氏

 

 

 

 

詳細は

http://www.tk-ryoma.com/patio/read.cgi?no=158

31.薩摩藩御用商人 濱﨑太平次②

幕末の志士が歩いた大坂 30回目

薩摩藩御用商人 濱﨑太平次墓所跡(竹林寺)  西区本田1-9-3 

 濱﨑太平次は、薩摩の指宿で商売を行い、「ヤマキ」という屋号の船問屋で、日本の豪商年商上位ベスト10に入るぐらいの豪商でした。

 第5代目の濱﨑太平次のときに店が栄え、寛政年間の長者番付には263名のうちで1位にになっています。第7代目のとき事業が傾き、継いだ第8代目 濱﨑太平次は14歳で店主となり、家業の復興に全力を注ぎました。

 当時財政難だった薩摩藩は、家老に調所広郷を起用し、財政再建を命じます。

 そこで、調所広郷は濱﨑太平次(8代目)を鹿児島に呼び、薩摩藩御用商人に任命しました。

 唐物を密輸入し、琉球や奄美の砂糖を大坂方面に売りさばき、膨大な利益を上げました。

 濱﨑太平次の店「ヤマキ」は、藩の財政再建に貢献しながら店の事業拡大を図り、持ち船が34隻以上となり、函館、琉球、長崎、大坂、薩摩の甑島、鹿児島、指宿港に支店を構えました。大坂では西区立売堀北通六丁目に支店を構え、肥後孫左衛門を支配人として起用しました。

 「濱﨑太平次翁之略伝」に店の所在は、立売堀川と木津川の交差点のあたりにあり、濱﨑太平次の屋敷は、薩摩藩邸(下屋敷)のすぐ隣に居を構えたと記されています。

 文久3年(1863)、濱﨑太平次は用務で大坂の店に来ましたが、滞在中に、病で倒れてしまいます。小松帯刀がこのことを奏上し、孝明天皇の耳に入り、天皇の侍医を派遣させ、治療に当たらせますが、同年6月15日、50歳で亡くなります。

 死去の知らせを聞いた島津久光も嘆いたといわれています。

 遺骸は荼毘にふされ、竹林寺に密葬されました。Pict95040001

 

その1ヵ月後、従兄弟の清八郎も大坂で亡くなります。清八郎の曾孫にあたる、俳優の浜畑堅吉氏は、自身の祖父から「太平次と清八郎は暗殺されたと思う」と聞かされたようです。

 遺骸はその後、指宿に持ち帰り、本葬式を行なった後、現在の墓所に葬られました。鹿児島の錦江湾 指宿港に太平次公園があり、8代目の濱﨑太平次の銅像が建立されています。また、その場所から600メートルのところに墓所があります。

 

 

 

 

30.残念さん

長州藩ゆかりの史跡「残念さん」(長州藩士 山本文之助の墓)  尼崎市杭瀬南新町4-9

 元治元年(1864)7月19日に勃発した「禁門の変」で長州藩は大敗しました。

 長州藩士である山本文之助は参戦していましたが、敗北のため京都を脱出し、西国街道を通って西へ水路を使い敗走しました。

 尼崎藩は幕府の親藩にあたりながらも尊王派であったため、尼崎藩領にある大物北ノ口で上陸しました。しかし、山本は尼崎藩に捕えられ投獄されます。

 山本は期待を裏切られた思いで「残念、残念」を繰り返し、その日のうちに自害します。

 元治元年7月20日、山本文之助29歳でした。

 翌年の元治2年(1865)2月(※同年の4月8日から慶応元年に変更)頃から山本文之助の墓が「残念さん」と呼ばれるようになり、大坂の町人に信仰が深まっていきました。

 参拝し願いをかけると叶えられるという噂が広まりました。それも同年の5月にはピークになり、大坂から尼崎の道には参列者の列が続いたそうです。

 長州征伐のため将軍自ら大坂城に入城する予定になっていたため、幕府は5月17日以降残念さん参りを禁じました。

 大坂町人平野屋武兵衛の書いた諸記録のうち「日加栄」の慶応元年5月16日に次のような記載があります。

 「五月一六日、未明より尼ヶ崎町家之墓所ニ、昨年京都より長州江之落武者、尼ヶ崎入口ニて横死の霊魂残り、いつとなく此墓所江立願すれバ、病氣にかきらず、残念なることさへ立願すれバ、願成就のよしにて、諸方より大くんじゅのよし、珍ら敷、忰駿七召連見物に参り候處、野里の渡しにて早くも日光御上りに、最早六拾人の余も渡り候よし、渡し守の咄しに、朝五ツ時よりハ所より番人出候よし、始め青竹にて誠にていねひきれいにかきいたし、土墓にいたし有之候へとも、あまりあまり多人数参詣にて、かきを取のけ、セいし候へとも、中ゝ左様いたすほどさかんに相成り、塚もなく、少々おぼひ候上、土砂の高ふに相成候土砂を持帰り、(途中省略) 長州の横死の人の名前わかり不申候、年比ハ弐拾三四才位のよし(途中省略)人こぞりて、残念様、残念様 唱へて立願のよし、(以下省略)」 

Pict65150002 Pict65140001

29.薩摩藩御用商人 濱﨑太平次邸及び(「ヤマキ」)大坂店跡

幕末の志士が歩いた大坂 29

薩摩藩御用商人 濱﨑太平次邸及び(「ヤマキ」)大坂店跡   西区立売堀6-5-6

 薩摩の豪商 濱﨑太平次(8代目)は薩摩藩の財政難を立て直すため、家老 調所広郷より鹿児島の藩庁に呼び出され、薩摩藩の御用商人に任命されました。

 唐物を密輸入し、琉球や奄美の砂糖を大坂方面で売りさばき、膨大な利益を上げました。

 濱﨑太平次の店「ヤマキ」は、藩の財政建て直しに貢献しながら、店の事業拡大を図り、持ち船が34隻以上となり、函館、琉球、長崎、大坂、薩摩の甑島、鹿児島、指宿港に支店を構えました。

 「海上王 濱﨑太平次傳」によると、大坂では、西区立売堀北通六丁目に店を構えたとあります。

 店の支配人に肥後孫左衛門を起用しました。また「濱﨑太平次翁之略伝」では、店の所在地は同じですが、更に、立売堀川と木津川の交差点のあたりにあり、「薩摩藩邸」すぐ隣に居を構えたと記されています。

 この薩摩藩邸は、薩摩藩蔵屋敷の下屋敷に該当すると思われます。すぐ北には「島津公園」があります。また、更に北に行くと薩摩屋仁兵衛が開削した「薩摩堀川」があり、この周辺には「薩摩屋仁兵衛」をはじめとして「薩摩屋○○介」などのように、「薩摩屋」の屋号の店がおよそ10軒ほど集中していました。

Pict94820001

  

土佐海援隊

11月11日は「電池の日」だそうですね。

海援隊

今日のNHK歴史ヒストリアで「海援隊」が取り上げられます。

武田鉄也さんのバンドではなく、坂本龍馬率いる「土佐海援隊」です。

「亀山社中」と「海援隊」は違います。また同時期に中岡慎太郎率いる「土佐陸援隊」もあります。偶然にも隊長2名が同時に遭難に遭ってしまいますが・・

龍馬の死後の海援隊にも興味があります。

http://www.nhk.or.jp/historia/schedule/index.html

幕末の志士が歩いた大坂 28

28回目

薩摩藩蔵屋敷

大坂には江戸期に125の藩の蔵屋敷が土佐堀川、堂島川沿いに建ち並んでいました。 

その中で広い敷地を持ち船入を設け、蔵屋敷の中で船への積み込みや積み下ろしをしていた藩もありましたが、薩摩藩は上屋敷、中屋敷、下屋敷、濵屋敷の4箇所を設けていました。

篤姫が立ち寄った場所、坂本龍馬など勝 海舟の門下生が潜伏した箇所は上屋敷になります。

薩摩藩の御用商人は多数いました。すべて「薩摩屋」という屋号をもらいました。

薩摩屋仁兵衛(比田家)や薩摩屋半兵衛(川端家)などそのほか多数の「薩摩屋」がありました。

夕陽丘周辺の史跡 ③

夕陽丘の史跡③

新たに写真でご紹介いたします。

http://www.digibook.net/q/3xPZNlY4myZOHWUy/

夕陽丘史跡 真田幸村戦死の地

 戦国武将 真田幸村戦士の地

 夕陽丘にある安居神社が真田幸村の戦死の地です。

 現在、この神社境内に真田幸村の銅像が年内に建立されるそうで、石碑が移転し参加者に見ていただくことができませんでした。

 安居神社から茶臼山まではわずかの距離です。徳川家康本陣から見ると大変慌てたに違いないと思います。
 大久保彦左衛門は後に「三方が原の戦い(若き徳川家康が武田信玄に大敗した戦)以来」と語ったそうです。幸村の命日にあたる5月7日は、毎年、安居神社にて幸村祭が行われています。

 さて、その真田幸村。今はものすごい人気があります。

 真田幸村の名で知名度が高いのですが、実際の本名は「真田信繁」といいます。

 信繁直筆の書状を始め、この時期の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しないようです。

 実在の人物の名としては「信繁」を使用するのが正解です。「幸村」の由来は、江戸期、寛文12年(1672)に完成の軍記物語『難波戦記』に「幸村」が登場します。その本が爆発的に売れたため「幸村」が一般的となり、後世になると新井白石の『藩翰譜』や、兄・信之の子孫である松代藩の史書にまで「幸村」が採用されたそうです。

0050001 0060002

夕陽丘の夕陽と史跡②

夕陽丘の夕陽と史跡

夕陽丘ツアーが無事終了しました。

非公開場所を3箇所や八軒家船着場にあった常夜燈、桜田門外の変の関西版密議場所跡、齢延寺での土佐藩関連の人物紹介、小松帯刀のゆかりの地などを巡りました。

http://www.digibook.net/q/iEzMFoI97LIqXvED/

夕陽丘の夕陽と史跡

夕陽丘の夕陽と史跡

鎌倉初期、新古今和歌集の撰者でもあり、藤原定歌と並んで評価された歌人、藤原家隆が78歳で初めて京都を離れ、日想観を修めながら永眠することを願い、上町台地の夕陽がきれいな場所に「夕陽庵(せきようあん)」という庵を建てました。

契りあれば 難波の里に宿り来て

 波の入日を 拝みつるかな

という句を詠みわずか10数日で永眠します。

明治初期、伊達宗広(陸奥宗光の父)が家隆を慕いこの地に「自在庵」という庵を建て、いえたかの墓の修繕をします。宗広は余生を歌道に専念します。「夕日丘」という地名を創名したのは伊達宗広でした。明治5年、体調を崩し、東京の陸奥宗光邸に移ります。この地を去るとき

空蝉の 殻は何處に 朽ちぬとも
      我魂やどる かた岡ぞこれ

という句を詠みます。明治10年伊達宗広が亡くなり、遺言どおり家隆塚の近くに埋葬され、その後「陸奥家墓所」となって行きました。

次回、その写真をアップいたします。

天王寺七坂を制覇

天王寺七坂

大阪旅めがね「大阪歴史プレミアムツアー」で天王寺七坂(真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂)をすべて案内することができました。

夕陽丘という場所はやはりいいところですよね。

http://www.digibook.net/q/pEygwsCFcLJ-X-xG/

幕末の志士が歩いた大坂 27

27回目

長州萩藩蔵屋敷跡      西区土佐堀1-6

 土佐堀通りとなにわ筋の交差点 北東角に「長州萩藩蔵屋敷跡」の碑があります。
 文久2年(1862)、久坂玄瑞、高杉晋作、桂 小五郎らは、開国論を批判し、藩論の「航海遠略策」から「破約攘夷」に転換させることに成功しました。
 京都において長州藩は朝廷に多大な影響力を持ちましたが、文久3年(1863)8月18日の政変(会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派によるクーデター)にて三条実美ら七卿とともに長州は京都から追い出されます。
 長州藩は禁門の変、四カ国連合艦隊による報復攻撃第一次及び第二次長州征伐など、数々の苦難を乗り越え、薩摩藩と共に討幕に全力を注ぎ明治維新を迎えることとなります。

0730002 0740001 0750003  

幕末の志士が歩いた大坂 26

26回目

長州藩ゆかりの地 高野寺  西区土佐堀 1-5-10

 高野寺は摂津国八十八ヶ所霊場の札所番号第27番に該当します。

 場所は土佐堀通り沿いにあり、ビルの合間にあります。この場所は、江戸期、長州藩の蔵屋敷がありました。
 長州藩は、元治元年7月朝敵とされ、大坂蔵屋敷は幕府に没収されてしまいます。

 明治新政府が樹立し、慶応4年(1868)2月、再び長州藩の屋敷となりますが、明治4年(1871)の廃藩置県に伴い蔵屋敷が廃止となり、長州藩はこの土地を真言宗総本山の高野山金剛峰寺に寄進します。
 高野山では早速寺を建立し、古くから伝わる弘法大師像を安置しましたが、いつしか「長州大師」と呼ばれるようになりました。その後、明治13年(1890)、高野山金剛峰寺の塔頭だった三蔵院がこの地に移転し「高野寺」と名付けられ現在に至ります。

 一坂太郎著の「関西の中の防長」によりますと、寺の仏壇の奥に位牌が安置されており、表面に「長州藩歴代物故藩主霊牌」、裏面に「明治四年吉日物故藩主施主毛利敬親」と刻まれているそうです。

Pict75560001 Pict75570002

夕陽丘周辺ツアーの資料完成

11月8日実施いたします「大阪歴史プレミアムツアー 夕陽丘」の資料が

やっと完成しました。

今まで作成したものを参考にゼロから作り直しましたので、今回も時間がかかってしまいました。

当日ご参加の皆様、どうぞお楽しみに。

天気も悪くなさそうなので安心しています。

前回大阪龍馬会で実施した模様は下記のとおりです。

http://osakaryomakai.com/n/kiroku/2008.html

0500001

大坂の坂本龍馬ゆかりの地

幕末の志士が歩いた大坂 26回目

坂本龍馬ゆかりの地「土佐海援隊大坂詰所(薩万)跡」

 私が大阪史跡を研究したきっかけは「勝 海舟寓居跡」「勝 海舟と西郷吉之助が会談した場所」「第14代将軍徳川家茂終焉の地」「土佐海援隊大坂詰所(薩万)跡」「新選組定宿 京屋忠兵衛跡」などがどこに該当するのか。

 それを調べぬくことを目標に1999年より調査開始しました。

 勝 海舟寓居跡と西郷会見の場所は同一の場所、徳川家茂終焉の地、は少しして判明しました。

 2009年になって「薩万跡」「京屋忠兵衛跡」がやっと見えてきて、京屋忠兵衛跡には銘板が掲げられました。

 薩万も水帳絵図や当時の手紙やお龍さんの回顧談からある程度「ここ」というのがわかりました。

 薩万の女将おりせさんは、寺田屋のお登勢さんより面倒見が良かったとお龍さんが語っています。

 みなさん、大坂に薩摩藩の屋敷(蔵屋敷)は、いくつあったと思います?

 私の知る限り4箇所もありました。

 その4箇所の近くには決まって薩摩屋半兵衛の邸がありました。

 薩摩屋半兵衛の菩提寺は、中寺の法性寺です。姓名は川端氏。

 川端氏から法性寺ご住職様を通じて、薩摩屋半兵衛の歴史を知ることができ、

かつ薩万とは無関係であることがわかりました。

 詳細は下記URLへアクセスください。

http://www.tk-ryoma.com/patio/read.cgi?no=158

幕末の志士が歩いた大坂 25

25回目

頼 山陽生誕の地  西区江戸堀1-10-31(金光教玉水教会前)

 頼 山陽は安永9年(1780)12月27日、この地に生まれました。
 父である広島藩の儒者 頼 春水は、「春水南軒」と名付けた風流な家で「青山社」という名開いていました。

 山陽が18歳の時、江戸に出て尾藤二洲の塾に入門します。

 21歳の時、脱藩し、父である広島藩の儒者 頼 春水は、「春水南軒」と名付けた風流な家で「青山社」という名の塾をその罪により6年間自邸にて幽閉されます。
 その幽閉中、23歳の頃から維新大業の源泉となる『日本外史』の著作にかかりました。
 この『日本外史』は20数年もの期間をかけて作られた大作で、文政5年(1822)、京都に移り住み、同9年に完成させました。

 全部で22巻で構成され、政権が皇室から武家に代わる由来を大筋に、南朝の正当性を盛り込んだ史書です。

 文政11年自邸の庭に書斎「山紫水明処」を造営し、現在もその建物が保存されていて、予約をすれば見学することができます。

 書斎「山紫水明処」は現存しており、予約いただければ見学することが可能です。

 当時としては珍しい高価なガラス戸など、当時のを偲ぶことが可能です。

 写真撮影は可能でしたが、管理者からブログなどで公表しないでいただきたいとのことですので、差し控えさせていただきます。下記写真は広島市内にある「頼  山陽史蹟資料館」です。わたしはここで「日本外史」を購入しました。

 0100001

 

幕末の志士が歩いた大坂 24

24回目

梅花社屋跡    中央区今橋4-5-20(淀屋橋竹村ビル)

 私塾梅花社は、儒者である篠﨑三島(さんとう)が開塾しました。
 豊後の医師加藤周貞の次男として大坂に生まれた加藤金吾(のちの篠崎小竹)が、9歳で私塾梅花社に入門し古文辞学を学びました。

 三島には後継ぎがなく、13歳の時に望まれて篠﨑家の養子となります。

 しかし、寛政の改革が進む中、頼 山陽に感化されると養家を抜け出し、江戸に遊学します。尾藤二洲に学び、古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向しますが、その後、帰坂し養父三島に詫びて和解が成立し、私塾梅花社を継ぎました。

 塾は三島の頃よりも栄え、多くの門弟を育てました。

 篠﨑小竹の娘婿が前述の後藤松陰です。篠崎小竹がこの地に広大な邸宅を構え、「梅花社」として学問所を開き、育てた門人は1,500人といいます。

 昭和3年(1928)3月に大阪府が「梅花社屋址」という石碑をこの地に建立しました。しかし、時代が進み、梅花社址に「麻雀屋 今橋クラブ」が増築する際、この碑は倉庫に置かれ、ほこりまみれになっていました。
  Dsc002350005_3

Dsc002360006_3

0004_3 

0003_2

                                 

                           

                       

                                                                  

 愛媛県の偉人や史跡の検証を行なっている後藤茂七が、篠﨑三島の出身地である愛媛県内子町に移転することを大阪府教育委員会に願い出たところ、許可され、現在は、愛媛県町立内子中学校に移されています。

大阪の跡地には、ビルの側面に「梅花社屋址」という碑が貼り付けられています。 

大阪市消防局中央消防署今橋出張跡    中央区今橋4-5-19(ダル ポンピエーレ)大正14年(1925)に建設された建物で、消防署の出張所でした。
 1階は車庫で消防車を収容していました。そのため1階の天井はやや高めに作られています。名残として非常灯が残っています。
 現在はイタリア料理店で店名は「ダル ポンピエーレ」といい、イタリア語で「消防士」の意味だそうです。

Dsc014190002_2 Dsc014180001_2

幕末の志士が歩いた大坂 23

23回目

吉田松陰訪問の地 後藤松陰の私塾「広業館」跡       中央区北浜4-4-12

 吉田松陰は脱藩して嘉永4年(1851)12月15日から翌年の4月5まで東北遊学を行いました。江戸に帰藩し、脱藩罪で自宅謹慎の処分が下されます。
「10ヶ年の遊学」が許され、吉田松陰(当時は寅次郎と名乗っていたかもしれない)は、嘉永6年(1853)1月26日に萩を発ち、江戸に到るまで詳しく書き記した「発(き)丑(ちゅう)遊歴日録」です。
 江戸に到着したのが5月24日。6月3日、浦賀にアメリカ艦隊率いるペリー提督が姿を現していますが、日記にはそのときの有様を詳しく記しています。
 その吉田松陰が書き記した「発(き)丑(ちゅう)遊歴日録」の嘉永6年(1853)1月11日に、大坂梶木町の後藤春蔵(松陰)を訪れたことが記載されています。

(一月) 十一日(途中省略)。後藤春蔵を梶木町に訪ひ、一見して及ち出で、舟に還る。
(以下省略)」

 吉田松陰はその後、森田節斎を訪ね、岸和田などを遊歴の後、再び3月18日に大坂へ戻ります。しばらく記録が途絶えていますが、4月1日と3日、再び後藤松陰を訪ねています。

四月朔日 晴。後藤春蔵・藤澤昌蔵(即ち東畡なり、高松)を訪ふ。二日 晴。坂本鉉之助・奥野彌太郎(遠藤但馬守の臣)を訪ふ。三日 晴。後藤春蔵を訪ふ。(以下省略)

松蔭同士が対談したことになります。

Pict75750001

幕末の志士が歩いた大坂 22

22回目

加賀藩蔵屋敷跡  北区中之島2-1(日本銀行大阪支店)

 現在の日本銀行大阪支店がある東側半分の位置に島原藩の蔵屋敷があり、西側半分の位置に加賀藩の蔵屋敷がありました。

 加賀藩の藩祖祖は、豊臣政権の頃、五大老の一人前田利家です。

 幕末まで前田家が一番石高の高い藩主として継承します。

 幕末の加賀藩は、禁門の変の際、長州藩との衝突を嫌い、領地金沢へ帰国したことにより、第13代藩主 前田斉泰(なりやす)の世子 慶寧(よしやす)が謹慎、家老 松平大弐は切腹、勤王派の家臣40余名が死罪や流罪の処分を受け、藩として大きな打撃を受けることとなりました。これを「加賀藩元治の変」といいます。

 のちに、慶寧は謹慎を解かれ、第14代藩主に就きますが、幕末の激動を座視するほかなく、表立った動きは控えました。

 鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に加勢したため、明治新政府では大藩であるにもかかわらず、主流から外れることになりました。

 加賀藩は道頓堀川沿いにも蔵屋敷を所有していました。(現在の大阪市西区南堀江1-4~6)

 下記の写真は滋賀県高島市マキノ町海津にあった「加賀藩蔵屋敷跡」と「家老 松平大弐自刃の地」です。

01710003 0110002 0140001

幕末の志士が歩いた大坂 21(赤穂藩)

21回目

幕末維新の播州赤穂藩

 大阪裁判所のあった位置(現在の大阪市市役所)は、播州赤穂藩の蔵屋敷がありました。

 「播州赤穂藩」といいますと、大半の方が大石内蔵助以下四十七士の討入りを連想される事と思います。しかし、この場所にあった赤穂藩は、浅野家の蔵屋敷ではありません。ご存知のように、浅野家は元禄期に改易となり、2年間は幕府直轄領となっていました。その後、永井家が4年治めて後、宝永3年(1706)、森 長直が2万石として入封します。森家は、織田信長に仕え、小姓として活躍した森 蘭丸の末弟 森 忠政の末裔にあたります。この森家が幕末まで赤穂藩を統治します。

<赤穂勤王党による文久事件と高野の仇討ち事件>

 幕末の赤穂藩は、佐幕派と勤王派に分裂し、藩政の勢力争いをしていましたが、佐幕派が実権を握り、勤王派を政治の場から引きずり下ろしました。

 これに反感を持った勤王の過激派 西川升吉は「赤穂勤王党」を組織し、佐幕派のリーダーである家老 森 主税、その用人 村上真輔 2人の暗殺を謀ります。

 文久2年(1862)12月9日夜、13人の刺客が2人の命を奪うことに成功します。

 13人の刺客は藩外へ逃れ、大坂の土佐藩蔵屋敷において保護を受けました。

 文久3年(1863)8月18日の政変、続いて蛤御門の変により、赤穂藩では勤王派の勢力が衰えていきます。

 そして明治維新を迎え、藩庁は、文久事件に関わった両派を仲直りさせようと努めます。

 文久事件で暗殺された村上真輔の子孫中心に、かつての刺客たちに対する復讐計画が企てられました。これを察知した藩庁は、生き残っていた刺客6名に、高野山にある藩主森家の墓守を命じます。復讐を誓う村上家の子孫7名は、一足早く高野山に行き、6人の到着を待ち伏せして、明治4年(1871)2月30日、仇討ちを成功させます。

 これを「高野の仇討ち」といいます。

 赤穂藩は、「四十七士の討ち入り」だけでなく「高野の仇討ち」と、2回もの仇討ち事件を起こしていることになります。

 さて、仇討ちの現場に近い道路脇に「殉難七士の墓」が建てられ、討ち取られた6名(かつての刺客)は、ここで静かに眠っています。

 なお、6名なのに何故七士なのかといいますと、6名のうちの一人の弟が、文久事件とは全く無関係でありながら勇敢に闘ったため、復讐組が誤って斬ってしまったからだそうです。

 討ち取った7名は、丁重な待遇を受けていましたが、司法卿 江藤新平は、死刑に値すると判断します。最終的には、大阪裁判所は、死罪は免じ禁固刑の判決を下しました。

 同日、太政官より「仇討ち禁止令」が出されます。(明治6年2月7日)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2021年12月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

osayan

  • osayan: osayanのアルバム http://www.voiceblog.jp/y-osayan/

最近のトラックバック

カテゴリー

microad