大阪旅めがねプレミアムツアー 新商品(大阪駅探訪)
大阪旅めがねで新たにプレミアムツアーの販売が始まりました。
以外にもJR大坂駅構内の探訪です。
たくさん隠された秘密などが解き明かされる。
建築関係に詳しい岩田氏がガイドを務めます。
めったになコース
人数に限りがありますので早い目にお申し込みください。
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大阪旅めがねで新たにプレミアムツアーの販売が始まりました。
以外にもJR大坂駅構内の探訪です。
たくさん隠された秘密などが解き明かされる。
建築関係に詳しい岩田氏がガイドを務めます。
めったになコース
人数に限りがありますので早い目にお申し込みください。
20回目
明治紀念標跡 北区中之島1-1(中央公会堂付近)
前回に続き、幕末からそれます。明治10年西南戦争関連の史跡です。
明治紀念標は明治10年(1877)に起こった西南戦争の戦没者を追悼する慰霊塔です。
明治12年(1879)、博交社(後に大阪偕行社と改称)が中心となって寄付を募り、明治16年(1883)、中之島の豊國神社の西隣で現在の中央公会堂のある場所に建立されました。
5月6日から3日間にわたって落成式典が行われ、その後も毎年5月に招魂祭がここで行われたことから、陸軍にとっては東京の靖国神社にも匹敵する施設であったといえます。
寄付を募るポスター風の広告物(倉敷市立美術館所蔵)は、維新後に、大阪で初めて洋風表現をした画家、森琴石の手で100分の1の銅版画として作られました。
描かれた紀念標は、石造四角錐(かくすい)のオベリスク様の洋風で、金属製のモダンな紀念塔だったようです。
紀念標は、その地に岩本栄之助氏の寄贈で中央公会堂が建てらることになり、明治35年(1902)、大阪偕行社がある大手前(現在の追手門学院大手前中・高等学校の西南角)に移転されました。台座をあわせて22mという異例な高さの忠霊塔でした。
明治紀念標は、戦時中、供出されて今はありません。
下の写真は中之島にあった頃の写真です。
甲斐バンド
歴史から外れることをご了承ください。
甲斐バンドが相変わらず検索ランキングの中に入っています。
私が中学3年生だった頃、ようやく歌謡曲から離れて、当時はやり始めた「ニューミュージック」を聞くようになりました。アリスもそのうついのひとつです。そのなかで友達から紹介されたのが「甲斐バンド」。甲斐といえば当時は武田信玄を連想しましたが、リーダーが甲斐よしひろさんということがわかり納得。
NHKFM「サウンドストリート(水曜日)」が甲斐さん担当ということで初めて聞いて録音したのが第2回目でした。
第1回目に引き続いて「甲斐バンド特集」ということで「東京の冷たい壁にもたれて」「昨日のように」「らせん階段」「きんぽうげ」「シネマクラブ」を紹介。
途中のMCは、博多弁も少し出たりして、ずいぶんしゃべりなれた口調で親しみのある甲斐さんの声でした。口調がきつくなったのは「最近テープを投げる客がいて・・・。芯を抜かずに投げるんだよね。このあいだ頭に当たって頭にきたよ」といってましたがラジオなのですぐ気を入れ替えておられました。最後の曲の紹介で「最後に俺たちの新しいシングルを紹介します。HERO」
その後、時計のSEIKOのCMソング曲としてテレビにも流れ大ヒット曲となりました。
それから何年経つのだろうか。
初めて行ったコンサートでベース担当の長岡和弘を見れたのも今となっては貴重だった。そのときにパンフレットを買った。「Kai Band CIRCUS&CIRCUS 1979」
その中で甲斐さんのメッセージ(主張)を
【俺たちのことを話す前に】
今、どうしても言っておきたいことがある。それは、最近の日本のロックって、サウンド指向に走りすぎだってこと。バックサウンドだけがすごくカッコ良くて、中身がまるっきりないよ。そのくせ、メッセージソングだとか、若者の心を代弁しているんだなんて言っている。
おかしいよ。まちがってるね。だから俺は言いたい。『おまえらメロディばっかりで、きょくがいいわけじゃないんだぞ』って。花屋やカフェテラスの中で、恋愛ごっこしてるような、オブラートに包んだ愛の歌なんか、少女マンガじゃあるまいし、メッセージになるわけじゃない。もういいかげんにしてほしいよ。男と女の愛なんて、そんなきれいなものじゃないはず。もっと挑発的でタフなものなんだ。
19回目
豊國神社 北区中之島1(大阪市中央公会堂前南東付近)
大阪市中央公会堂のある地は江戸期、仙台藩(伊達家)の蔵屋敷がありました。
明治天皇は、慶応4年3月大阪行幸の際、豊臣秀吉が天下統一をしながら幕府を開かなかった尊皇の功臣であるとし、豊國神社の再興を布告し再建するよう命じました。
明治12年(1879)、ここ仙台藩蔵屋敷跡の地に別社が建てられました。境内には豊臣秀吉の銅像が建立されました。しかし、この銅像は戦争中、供出により姿を消し、神社も昭和36年(1961)、大阪城内に移され、近年、豊臣秀吉の銅像が再び境内に復興されました。
ちなみに徳川幕府が豊国神社の社領を没収し再建を許さなかったのに対し、明治新政府になってから、大阪にあった川崎東照宮は、明治6年(1873)に消滅します。
本社は京都市東山区にあり、豊国(とよくに)神社といいます。
18回目
適塾 福澤諭吉と塾生たち
福澤諭吉著の「福翁自伝」には、適塾時代のことが詳細に記載されています。
その中での勉学風景をご紹介します。
毎日毎日、遊びもせずただひたすら勉学に打ち込んでいたという印象を持っていましたが、福澤とその塾生たちは、お酒を飲みに行ったり、福澤諭吉が悪さ(難波橋の上から舟にめがけて小皿を2・3枚投げて三味線の弦を切ったり、料理茶屋の猪口や小皿を盗んだり、御霊神社の祭礼時に杖で頭の上にある提灯を落としたり・・・)をずいぶんしていたようです。まだまだ「福翁自伝」には紹介されています。
しかし、乱暴をするもののしっかりと勉強をしていました。
塾で寝泊りしてる塾生は、畳一畳分のスペースのみ与えられ、眠くなったらそこで寝て、起きたら書を読むの繰り返しでした。枕はひとつもなかったようです。個人個人が好きなときに書物を読み、眠くなったら寝ていたようです。
食事も自分の領域が狭いので立って食べていたようです。
会読の日が1の付く日とか6の付く日というように決まっていて、その日にあわせて猛勉強し、会読が終わった日などに街中へ繰り出していたようです。
会読は試験のようなもので、優秀な場合、等級が上がっていくという実力主義の塾だったようで、毎日塾頭が講義をするということではなかったようです。
読書、写本を通じてオランダ語と医術の勉強をし、実力をつけていきました。
村田蔵六(大村益次郎)は、蘭書の中で「兵学」の翻訳をした経験で、実際戦の経験をしたこともないのに、窮地に陥った第二次長州征伐の際、幕府軍を打ち破っていきます。
上野戦争も、官軍よりも彰義隊の兵が3倍いる状況で、緻密な作戦で1日で終わらせています。
福澤諭吉はオランダ語では今後通用せず、1からやり直して英語の勉強を始めます。
夕陽丘周辺の史跡探訪
大阪龍馬会イベントで数回まわりましたが、今回初めて非公開の場所
にご案内することができるようになりました。
幕末長州藩関連の史跡です。
非公開の場所へのご案内は、これで計3箇所になります。
17回目
適塾 福澤諭吉
一万円札の肖像画が聖徳太子から福澤諭吉に代わってずいぶんなりますね。
慶應義塾大学の創設者として有名です。
先般、8月4日~9月6日、大阪市立美術館において「福澤諭吉展」が開催されており、その近くの一心寺シアターでお世話になった劇団の座長、副座長が出演するお芝居もあり、重なっていましたが、時間の都合上、「福澤諭吉展」に行きました。
充実した展示品に驚きました。
入場料が1,200円。図録が約400ページの豪華版で購入。(京都国立博物館で購入して「龍馬の翔けた時代」は約300ページでしたがそれよりも豪華でした)高額な金額だった記憶があります。また、「福翁自伝」も購入し、現在読んでいる最中です。
この「福翁自伝」は適塾時代のことが詳しく述べられていて、非常に面白い本ですのでお薦めです。適塾生たちの勉学ぶり、豪遊ぶり。貧疎な生活ぶりなどが描かれ、特に福澤諭吉は、ユニークのある悪さをかなりしていたようです。
手塚治虫の曾祖父にあたる、手塚良庵に悪さするシーンは興味がもたれます。
緒方洪庵のお通夜の席で福澤諭吉と大村益次郎が対話していますが、福澤は大村の印象を悪く持ち、危険人物と感じたことも書かれています。
さて史跡紹介ですが、大坂には、生誕地、慶應義塾大坂分塾跡などが上げられます。
16回目
適塾② 大村益次郎その2
前回の続きです。大村益次郎について。
今回は、意外と多い大阪での彼のゆかりの地をご紹介します。
<大村益次郎寓居跡>
1.倉敷屋跡
大村益次郎が村田良庵(後にすぐ蔵六と改名)と名乗っていた弘化元年(1844)、22歳の時来坂し、緒方洪庵の適塾に入門しました。入門当時は塾内住み込で畳1畳分しか与えられず、日夜勉学に励んでいたようです。一旦、長崎へ行きシーボルトに学びますが、再度嘉永元年(1848)適塾に戻り、塾頭を命じられます。嘉永2年(1849)4月、塾を出てここ倉敷屋作右衛門の座敷に移り住み、ここから塾に通いました。しかし、ここに住んでいたのも束の間で、大坂城近くの善庵筋に借家を借りそこへ移っています。建立は「大村卿遺徳顕彰會」によるものです。
場所は西区江戸堀2-6(江戸堀フコク生命ビル前)。
2.漏月庵跡
大坂城近くの善庵筋に借家を借りそこへ移り住みましたが、生まれて初めて一ツ家の主になったことを記念して「漏月庵(ろうげつあん)」と名づけ、老婆を一人雇い、ここから適塾に通いました。村田蔵六が初めてこの家に入った夜は、月がとても明るい夜で、寝ころんでいると、軒のひさしの破れから月が見え、それがひどく気に入って、「漏月庵」と命名したようです。
昭和18年6月30日、大阪の大村卿遺徳顕彰會では、有志相計り、高さ四尺の花崗岩で「大村益次郎先生漏月庵址」と書かれた石碑を建立しました。現在は損失してありません。場所は中央区徳井町1-2-2(吉川医院)。
3.兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑(終焉の地) 中央区法円坂2-1
村田蔵六が適塾の塾頭になったその年に、橋本左内、杉 亨二が入門しています。27歳で塾を辞め、帰郷し医業を開業します。
その後、宇和島藩に招かれ、藩主 伊達宗城より蒸気船の建造を命じられ、それを実現します。安政3年には、幕府から招かれ、蕃書調所(洋書を翻訳する役所)に出仕し、併せて講武所(幕府の学校)の教授を務めます。2年後、長州藩 桂小五郎の薦めにより、長州藩の藩校教授となります。幕府による第二次長州征伐の時は、参謀として指揮を取り、勝利に導きます。新政府樹立後は、大参謀 薩摩藩 西郷吉之助の下で軍監兼参謀を務め、上野の彰義隊との戦いの総指揮を命じられ、僅か1日で終わらせています。明治元年、維新に散った人たちを祀る招魂社 現在の靖国神社を九段に創建します。新政府軍、特に陸軍の強化の為、本拠地を大阪を予定とし、巡察に関西へ着ます。明治2年(1869)京都三条木屋町の定宿にいるところを刺客に襲われ、瀕死の重傷を負います。大阪病院(元浪華仮病院)へ治療のため運ばれます。
敗血症を併発し、右足の切断手術を受けましたが、甲斐なく、明治2年11月5日、46歳で永眠しました。大村益次郎を主人公にして書かれた歴史小説「花神」の著者である司馬遼太郎さんも同じ場所で亡くなることとなります。
大村益次郎の墓は故郷の鋳銭司村にありますが、切断した右足は、大村益次郎の遺志により、師である緒方洪庵の墓がある龍海寺に、洪庵の墓の横に埋められました。
4.大村益次郎足塚(龍海寺) 北区同心1-3-1
師である緒方洪庵夫妻の墓所の北側に「大村兵部大輔埋腿骨之址」の碑があります。
甲斐バンド
すみません。このブログの趣旨と違うことを書かせてもらいます。
今日自分のブログを立ち上げましたら「検索フレーズランキング」に1位と2位に「甲斐バンド」が入っていました。びっくりしました。
「CRYの記憶」というHPを発見!
http://www.geocities.jp/crygc/mymymy.html
私が10月7日にUPした「大阪城と甲斐バンド」で大阪城ホールでロックコンサートを初めて実施したのは甲斐バンドだったことを書きましたが、翌年も1984年12月5日にコンサートに行きました。上記HPのCRYさんの初めて行ったコンサートとしてこの同日のコンサートの模様を詳細に紹介されていました。これまたびっくりです。
曲順も(私もしっかり記録していますが)すべてぴったり。MCの内容も。
その後も欠かさず行ってますので、CRY(「CRY」は甲斐さんの持ち歌で名曲のうちのひとつ)さんとどこかですれ違っていたんでしょうね。
いつか忘れましたが、甲斐さんのMCのときに、興奮した女性客があまりにもやかましく、甲斐さんが怒ったことがあるのですが、これもご存知なのでしょうね。
15回目
加賀藩(前田家)蔵屋敷跡 滋賀県高島市マキノ町海津
現在の日本銀行大阪支店がある東側半分の位置に島原藩の蔵屋敷があり、西側半分の位置に加賀藩の蔵屋敷がありました。島原藩は切支丹弾圧、寛政4年(1792)の普賢岳の大噴火など、藩政に苦慮します。幕末期では一部の藩士による勤王運動がありましたが、藩の体制は動かず明治維新を迎えます。
加賀藩の藩祖は、豊臣政権の頃、五大老の一人前田利家です。
幕末まで前田家が一番石高の高い藩主として継承します。
幕末の加賀藩は、禁門の変の際、長州藩との衝突を嫌い、領地金沢へ帰国したことにより、第13代藩主 前田斉泰(なりやす)の世子 慶寧(よしやす)が謹慎、家老 松平大弐は切腹、勤王派の家臣40余名が死罪や流罪の処分を受け、藩として大きな打撃を受けることとなりました。これを「加賀藩元治の変」といいます。
のちに、慶寧は謹慎を解かれ、第14代藩主に就きますが、幕末の激動を座視するほかなく、表立った動きは控えました。
鳥羽伏見の戦いでは幕府軍に加勢したため、明治新政府では大藩であるにもかかわらず、主流から外れることになりました。加賀藩は道頓堀川沿いにも蔵屋敷を所有していました。(現在の大阪市西区南堀江1-4~6)
滋賀県高島市マキノ町にも加賀藩の蔵屋敷がありました。
その滋賀県にあった蔵屋敷跡周辺の写真を公開いたします。
http://www.digibook.net/q/pFGhwpKEvzYrOmxH/
14回目
適塾②(大村益次郎)
適塾出身者には、後日活躍する人物が非常に多く輩出しています。
個人的には、まず第一に挙げたいのが大村益次郎です。
私は人間的には坂本龍馬が一番大好きですが、尊敬する人物を挙げるとすれば多数あるなかで大村益次郎もそのうちのひとりとなります。
皆さんはNHK大河ドラマ「花神」をご覧になりましたでしょうか?
たしか私は中学1年生の頃だったと思いますが、毎週欠かさず観ていました。
中村梅之助さんは、当時日曜の夜の時代劇「遠山の金さん」で主役を演じ、著名な俳優さんでしたが、この大村益次郎の役ぶりはすばらしいものがありました。
まだ一度も観ていない方がこの「花神」の大村益次郎を見ると絶対に特徴を捉えすぎていて爆笑すると思います。
今でも忘れません。大河ドラマの第1回は次の語りのあと大村益次郎が遭難にあうシーンからでした。
『一人の男がいる。歴史が、彼を必要としたとき忽然として現れ、その使命が終わると大急ぎで去った。もし、維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、つつ枯れ枝にその花を咲かせてまわることであった。中国では「花咲か爺」のことを「花神」という。彼は花神の仕事を背負ったのかもしれない。・・・彼。村田蔵六。後の大村益次郎である』そのあと林 光さんの作曲のテーマ曲が流れる。私の父曰く「賑やかな曲やなぁ」
しかし数十年たってみるとあの曲は大村益次郎の人生をあらわしているように思えてきた。
レンタルビデオ(DVD)にあると思いますので、一度観てください。
年末時代劇ドラマ「奇兵隊」で松平 健さんが高杉晋作の役を演じましたが、そのときの大村益次郎は片岡鶴太郎さんでした。この方もあじがありました。
次回、村田良庵→蔵六→大村益次郎の特筆すべき点を挙げたいと思います。
坂本龍馬の豆知識 6
勝 海舟への弟子入り
勝 海舟が明治期に入り、自身の回顧談「海舟余波」などに
「龍馬が俺を斬りに来たよ」と記載されているので、信じられているのですが、
この頃、勝 海舟も晩年を迎えており幕末維新から20年~30年経過しています。
ほら吹きで大袈裟にもの云う人物でしたので、すべて信用できない面があります。
龍馬が剣術で世話になった千葉道場の千葉重太郎(当時は鳥取松平藩の指南役を務める)と龍馬が、江戸の勝 海舟邸に斬りに行き、海舟の話を聞き龍馬がその場で弟子になりたいと願い出る、というのが一般的に知られているところで、ドラマでもよくこのシーンを見かけます。
勝 海舟日記などを読むと、龍馬と出会う時期は、海舟が大坂・神戸に来ていて、海舟が神戸の寓居先「生島四郎別邸」にいる文久2年(1862)12月29日に、千葉重太郎と龍馬が海舟を訪れ、京都での世情を聞いているとあります。
海舟と龍馬は、生島邸にて文久3年の元旦を迎えています。この日にはじめてあったのではないかと思われます。
ただし、12月5日に龍馬は福井藩主松平春嶽と謁見していて、そのときに海舟訪問の紹介状を書いてもらったと思われます。海舟日記に12月9日に名前は伏せていて「此夜、有志、両三輩来訪。形成の議論あり。」とあり、この日である可能性もあります。
いずれにしても斬りに行ったというのは可能性が極めて低いと思います。
大阪旅めがね「大阪歴史プレミアムツアー」
夕陽丘周辺ツアー
「幕末の志士が歩いた大坂」で薩摩屋半兵衛と大目橋をご案内したかったのですが、時間の関係で割愛いたしました。
11月8日の第3弾「夕陽丘周辺ツアー」では半兵衛の菩提寺(法性寺)を訪問しますので、じっくり語らせていただきます。(ひょっとするとご住職様から先にご説明があるかもしれません)
(大坂の商人で「薩摩屋」という称号を持った商人は数多く存在しています。)
法性寺は坂本龍馬が潜伏していたという言い伝えがあります。薩摩がらみなので可能性は低くないと思われます。
定員20名まであとわずかです。陸奥宗光墓所跡(稱念寺)、新選組大坂屯所跡(萬福寺)も境内に入らせていただく予定です。お楽しみに。
お申し込みは
http://www.tk-ryoma.com/patio/read.cgi?no=158
まで。
薩摩屋半兵衛については
http://www.tk-ryoma.com/patio/read.cgi?no=158
が詳しいですので、ぜひ御覧ください。
クイズの答え
いかがだったでしょうか?
Q1.新たに真田幸村の銅像が年内に完成
真田幸村の戦没の地である安居神社に、真田幸村の銅像が年内に建立されます。
大坂冬の陣で彼はなんと言う砦を築いたか?
Q2.「大阪史跡探訪南部編Vol.2」(10/25)実施前のクイズ
泉佐野市の史跡探訪です。約7箇所まわりますが、他の市に無く、珍しい特徴が
あります。それは何でしょうか?
<答え>
13回目
適塾①
大阪大学医学部の前身である適塾は、緒方洪庵が開いたもので、幕末期に優秀な人材を輩出しています。
適塾は、天保9年(1838)に大坂瓦町で開塾します。しかし、建物が狭すぎた為、天保14年、2階建ての商家を両替商天王寺屋忠兵衛から買い求め、現在の地(当時は過書町といいました)に移りました。
現在も建物が残っており、昭和39年、国の重要文化財に指定され昭和55年より一般公開されています。この適塾に入門した塾生は、636名にのぼります。その中から以下のような人物が輩出されています。
大村益次郎、福澤諭吉、緒方惟准、緒方郁蔵、佐野常民、杉 亨二、伊藤慎蔵、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎、福沢諭吉、花房義質、高松凌雲、手塚良庵など
幕末から明治にかけて、勤王活動、戊辰戦争、医業、政治、福祉、教育などさまざまな方面で活躍しました。
適塾出身者一人一人取り上げてシリーズ化したいと思います。
今回は適塾を開塾した緒方洪庵にスポットをあてます。
【緒方洪庵】
緒方洪庵は、文化7年(1810)備中足守に生まれます。
父 瀬左衛門が足守藩の大坂留守居役になったため来坂します。
そして中 天游の塾に通い蘭学を学びます。21歳の時、蘭学修行のため江戸へ行き、坪井信道に学び、さらには3年後、宇田川榛斎に学びます。26歳、再度大坂で中 天游の塾で蘭学教授を行います。そして29歳の時に適塾を開塾します。
日本の医学の発展に大きな功績を残します。
幼少の頃、天然痘にかかった洪庵は、嘉永2年(1849)11月、種痘の種を得て「除痘館」を開き牛痘種痘法による切痘を始めます。安政5年(1858)4月、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認することとなり、多くの人民の命を救うこととなります。
文久3年(1863)、江戸にて突然喀血により窒息し急死します。享年54歳でした。
適塾の西隣に「緒方洪庵像」があります。
2007年に行いました大阪龍馬会イベント「和歌山・大阪南部史跡探訪」の続編を10月25日行います。たずねるところをあらかじめ写真で公表したいと思います。クイズのヒントは今回入っていません。
12回目
播州赤穂藩蔵屋敷跡
大阪市役所がある位置は、幕末期では播州赤穂藩の蔵屋敷がありました。
「播州赤穂藩」といいますと、大半の方が大石内蔵助以下四十七士の討入りを連想される事と思います。
しかし、この場所にあった赤穂藩は、浅野家の蔵屋敷ではありません。
ご存知のように、浅野家は元禄期に改易となり、2年間は幕府直轄領となっていました。
その後、永井家が4年治めて後、宝永3年1706)、森 長直が2万石として入封します。
森赤穂勤王党による文久事件と高野の仇討ち事件家は、織田信長に仕え、小姓として活躍した森 蘭丸の末弟 森 忠政の末裔にあたります。
この森家が幕末まで赤穂藩を統治します。
<赤穂勤王党による文久事件と高野の仇討ち事件>
幕末の赤穂藩は、佐幕派と勤王派に分裂し、藩政の勢力争いをしていましたが、佐幕派が実権を握り、勤王派を政治の場から引きずり下ろしました。
これに反感を持った勤王の過激派 西川升吉は「赤穂勤王党」を組織し、佐幕派のリーダーである家老 森 主税、その用人 村上真輔 2人の暗殺を謀ります。
文久2年(1862)12月9日夜、13人の刺客が2人の命を奪うことに成功します。
13人の刺客は藩外へ逃れ、大坂の土佐藩蔵屋敷において保護を受けました。文久3年(1863)8月18日の政変、続いて蛤御門の変により、赤穂藩では勤王派の勢力が衰えていきます。
そして明治維新を迎え、藩庁は、文久事件に関わった両派を仲直りさせようと努めます。
文久事件で暗殺された村上真輔の子孫中心に、かつての刺客たちに対する復讐計画が企てられました。
これを察知した藩庁は、生き残っていた刺客6名に、高野山にある藩主森家の墓守を命じます。復讐を誓う村上家の子孫7名は、一足早く高野山に行き、6人の到着を待ち伏せして、明治4年(1871)2月30日、仇討ちを成功させます。
これを「高野の仇討ち」といいます。赤穂藩は、「四十七士の討ち入り」だけでなく「高野の仇討ち」と、2回もの仇討ち事件を起こしていることになります。
さて、仇討ちの現場に近い道路脇に「殉難七士の墓」が建てられ、討ち取られた6名(かつての刺客)は、ここで静かに眠っています。なお、6名なのに何故七士なのかといいますと、6名のうちの一人の弟が、文久事件とは全く無関係でありながら勇敢に闘ったため、復讐組が誤って斬ってしまったからだそうです。
討ち取った7名は、丁重な待遇を受けていましたが、司法卿 江藤新平は、死刑に値すると判断します。
最終的には、大阪裁判所は、死罪は免じ禁固刑の判決を下しました。同日、太政官より「仇討ち禁止令」が出されます。(明治6年2月7日)
大阪旅めがねの「大阪歴史プレミアムツアー」3回目は、夕陽丘周辺を歩きます。
日時は11月8日(日)12時30分集合~約3時間
昔、上町台地の西端でその先は海だった現在の夕陽丘。この夕陽丘をこよなく愛した著名人がたくさんいます。
聖徳太子、法然上人、藤原家隆、蓮如上人、松尾芭蕉、井原西鶴、真田幸村、伊達宗広、陸奥宗光、司馬遼太郎、織田作之助・・・。
夕陽がきれいな町にも史跡スポットがたくさん。時間内で盛りだくさんご紹介いたします。
・蘭医ボードウィンが逗留した法性寺:薩摩屋半兵衛の菩提寺でもあり、半兵衛が適塾の緒方惟準(洪庵の子)と懇意にしていた関係でボードウィンの逗留先を紹介します。
非公開ですが、ボードウィンが大坂を去るとき、記念に残していった遺品を特別に見せていただけそうです。
・赤穂義士の寺:浅野内匠頭長矩と赤穂義士47士の墓と石像がある吉祥寺を訪れます。
・水戸藩士自刃の地(桜田門外の変ゆかりの地)
「桜田門外の変」の関西版:水戸と薩摩で安政の大獄を行使した井伊大老をはじめとする幕府重役を排除し、幕政改革を行おうとした。
江戸では安政7年(1860)3月3日(※この年の3月18日から元号が「万延」に変更)に井伊大老が暗殺され成功に終わった「桜田門外の変」。関西側でも挙兵の計画を水戸を中心に薩摩とで計画していたが、情報が漏れ幕吏に襲われた場所です。
・ 陸奥宗光をはじめとした陸奥家墓所跡がある稱念寺:通常非公開である箇所を見学させていただきます。(陸奥宗光のぼしょが夕陽丘にあった頃の菩提樹などが現在も残っています)
・ イギリスの外交官アーネスト・サトウと西郷吉之助や小松帯刀と会見した本覚寺跡。
・ 大坂新選組の屯所跡である萬福寺。
・ 大阪にもあった「清水寺」。清水寺といえば「清水の舞台」。
大阪の清水の舞台を訪れ、大阪の街並みをご覧いただきます。
・ 幕末、悲劇の主役である会津藩。 会津藩士の墓所を訪れます。
以上、非公開の箇所が2箇所あり、いく機会がそれほど無いと思われますので、ぜひご参加ください。
定員20名のところあとわずかのようです。
早い目にお申し込みください。(大阪検定割引があります。合格された方はいくつかのクーポン券が送られていると思いますが、その中の「大阪旅めがね」の券を使用ください。
使用の場合、申し込みの際、クーポン使用の旨をお伝えください。(キャッシュバックがあります)
下記の電話またはサイトから
電話:06-6120-3277(大阪旅めがね事務局)
11回目
豊國神社跡 北区中之島1(大阪市中央公会堂東南付近)
豊臣秀吉の死後、神格化され豊国神社として祀られるようになりました。
大坂夏の陣後、徳川家康が社領を没収し、社殿の修理を一切禁じたため、豊国神社は衰退していきました。
幕府が滅び、慶応4年(1868)3月、明治天皇が大阪行幸の際、「豊臣秀吉は天下を統一しながら幕府を作らなかった尊皇の功臣である」として、神社の再興を布告され、再建が命じられました。
明治12年(1879)、大阪の中之島に別社が建てられました。
境内には豊臣秀吉の銅像も建てられていましたが、戦時中、供出により姿を消しました。
豊國神社は昭和36年(1961)大阪城内に移され、豊臣秀吉像は平成19年(2007)4月17日、復元されました。
※京都市東山区にある豊国(とよくに)神社が本社殿
10回目
小説「壬生義士伝」ゆかりの地(吉村貫一郎終焉の地) 盛岡藩蔵屋敷跡
:中央区北浜3-2-16
浅田次郎著の小説「壬生義士伝」が平成8年(1998)から平成10年(2000)まで「週刊文春」に連載され、連載終了後、単行本化され25万部を突破する大ベストセラーとなり、今なお幅広い読者層に支持されています。
平成12年(2002)1月2日に、テレビ東京系で渡辺謙主演による10時間ドラマとして放映され、平均視聴率9.1%を獲得し、さらに2003年1月18日に松竹系で映画化されました。
どちらも好評のようでした。映画での主人公(吉村貫一郎)には中井貴一が演じています。
吉村貫一郎は南部藩を脱藩し、新選組に入隊します。諸士取調役兼監察・剣術指南役を務めます。鳥羽伏見に敗れ、雪の中を、血と泥にまみれながら南部藩大坂蔵屋敷にたどりつきます。
留守居役の大野次郎衛門(幼なじみ)に帰藩を願いますが、藩の立場もあり切腹を命ぜられます。吉村は介錯なしで蔵屋敷の奥座敷にて自刃します。しかし、鳥羽・伏見の戦いで戦死したとされる「嘉村権太郎」と同一人物の可能性もあります。切腹した際に遺品を妻子の元へ届けてくれるように、血文字でしたためたと云う話は、子母沢寛によるフィクションのようです。
9回目
慶應義塾大阪分塾跡 【中央区北浜2-5-23(小寺プラザビル)】
緒方洪庵の適塾の塾頭を経験した福沢諭吉は、幕命により江戸へ出仕することとなり、江戸築地鉄砲州の中津藩中屋敷にて蘭学塾を開きます。この塾が「慶應義塾」に発展します。
諭吉はその後、咸臨丸にて勝 海舟とともにアメリカへの太平洋横断を経験しています。
慶応4年(1868)、塾名を慶應義塾と変更しました。
諭吉の生誕の地でもあり学問を学んだ適塾がある地でもある大阪に「慶應義塾大阪分塾」を開塾しました。
大阪慶應義塾を閉鎖して徳島に移転することとなり、これまでの大阪での取り組みをまとめた史料が残っています。
「慶應義塾大阪分塾」は、明治は6年11月1日に安堂寺橋通3丁目192番地の丸屋善藏の控えの家で開塾しました。「丸屋」は後の「丸善」です。書店として開業したのは明治元年(1868)でした。明治7年6月に「丸屋」から小寺篤兵衛宅(現:北浜2-5-23)に移転しています。
もし移転せず塾が継続し発展していたなら、現在は「慶関関同立」という言葉になっていたかもしれませんね。
クイズ
大阪龍馬会の会報やホームページに告知していますが、10月25日(日)に「大阪史跡探訪南部編Vol.2」を実施します。主な訪問地は熊取、泉佐野、岸和田です。
詳しくは下記HPにアクセスください。
http://osakaryomakai.com/n/eventnow.html
さて、初めて訪問する泉佐野市ですが、意外な特徴を見つけました。
答えは、当日は参加者にお伝えします。参加されない方は、こちらのブログに
先般の問題とまとめて26日以降、答えを公表いたします。
よかったら、覗いてみてご回答ください。↓
http://blog.with2.net/vote/?m=v&id=22889
以上
8回目
勤王僧 月照 生誕の地
昭和初期まで、中央区平野町2-6の地に佛光寺別院がありました。この佛光寺別院は、勤王僧 月照の生誕の地で、文化10年(1813)に生まれました。15歳の時、父に連れられて京都清水寺成就院に入室します。天保6年(1835)には住職となり、安政元年(1853)2月、寺務を弟 信海に譲り、以後、尊王攘夷運動に身を投じます。水戸藩 鵜飼吉左衛門、梅田雲浜らの志士と結んで、密勅降下の画策に努めました。安政の大獄が始まり、月照も幕府より厳しい追及を受け、同じく追われていた薩摩藩 西郷吉之助とともに京を離れ、鹿児島に逃れます。しかし、薩摩藩は、月照の入国を許さず追放します。「これまで」と感じた月照は覚悟を決め、日向へ向かう船の上で辞世の句を詠みます。
『曇りなき心の月と薩摩潟(さつまがた)沖の波間にやがて入りぬる』
『大君のためには何かをしからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも 』
その後、西郷と月照は、抱き合うようにして錦江湾へ入水自殺を図ります。すぐに救助されますが、月照は絶命。西郷は、奇跡的に一命を取り止めます。西郷はその後、幕府からの追及を逃れるため、菊池源吾と名を換えました。熊本の菊池氏を祖としていましたので、吾が源は菊池なりという意で付けたと云われます。公式には西郷三助に変名して奄美大島へ流されました。
さて、夕陽丘の史跡めぐりを11月8日に実施します。
コースの中で「その時歴史が動いた」といえる箇所は4~5箇所ありますが、そのうちの1箇所「真田幸村戦没の地」があります。
そこで問題です。もしよろしければご回答を返信ください。
4回目
「中之島界隈蔵屋敷跡モニュメント」
ツアーが始まって90分でやっと中之島に到着し「中央公会堂」付近で休憩を取った時点で、標記の箇所の案内を断念しました。
(ぜひ、観ていただきたい傑作だったのに・・・)
ということで、当日のお客様がこのブログを何名ごらんいただいているかわかりませんが、補足をさせていただく意味でご紹介したいと思います。
京阪電鉄中之島線が平成20年(2008)10月19日(来週の月曜日で1周年を迎えます)に開通し、それを記念して岡本吉冨さんが作成された江戸時代の天保期(ご参考に坂本龍馬、土方歳三、小松帯刀などは天保6年(1835)に生まれています)の古地図に各藩の蔵屋敷跡を掲載し見やすくしたモニュメントが掲示されました。
場所は、京阪電鉄中之島線大江橋駅改札外の地下街。坪数や「御船入」という川から直接船が蔵屋敷に入れるよう屋敷内に水路を引いた藩などが克明にわかるようになっています。
また、日曜日・祝日はお休みですが平日、そのモニュメント前に天牛堺書店があり、その店内に岡本氏の自費出版「大阪再発見 中之島界隈蔵屋敷跡」という本が販売されています。価格は800円、140ページからなる内容で、各藩ごとに文章で詳細に紹介されています。
問合せ先は 天牛堺書店大江橋店 電話:06-6202-7100
3回目
近藤長次郎挙式場跡・近藤長次郎の妻 お徳さんの実家「大和屋弥七」邸跡
高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは名字がなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれました。
幼少期から聡明で、江戸に出て学問と砲術を学び、その才能を山内豊信(のちの容堂)にも認められて文久3年(1863)に名字帯刀を許された勝 海舟の門下生になりました。
同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立しました。
また、龍馬の命令で長州藩に赴き、(禁門の変以後、朝敵のため武器は購入できない状況のなかで)小銃を売り渡しました。このとき、長次郎は長州藩主 毛利敬親から謝礼の言葉を直々に頂いています。
さて、勝 海舟が専稱寺を大阪の寓居先として活躍している頃、近藤長次郎は、南鍋屋町の町会所主である大和屋弥七の一人娘 お徳と結婚をしました。(大恋愛だったそうです)
仲人は、大阪海軍塾の塾頭 佐藤与之助(庄内出身)が務めました。
上記内容は、近藤長次郎とお徳さんとの間にできた子 百太郎が「覚書」として残しています。
場所は勝 海舟寓居﨑があった専稱寺(北鍋屋町⇒現在の大阪市中央区淡路町3-2
の筋より1本南の筋が南鍋屋町に該当します。現在の瓦町3.
2回目
勝 海舟・姉小路公知卿 謁見の地(西本願寺津村別院 別称 北御堂)
文久3年(1863)4月25日、ここ西本願寺津村別院を旅宿先にしていた公卿の姉小路公知を勝 海舟が訪ねています。
その2日前の4月23日に、勝 海舟は、幕府の蒸気船 順動丸にて、第14代将軍 徳川家茂の摂海巡視案内役を務めています。
直接海軍の必要性を将軍に進言し、認可された日でした。その勢いで、4月25日の朝5時に西本願寺に宿泊中の姉小路公知に謁見します。
攘夷派の中でも過激な公卿でしたが、海舟は謁見の際、見事に説得させてその日のうちに軍艦に載せて大坂湾巡回に同行させます。
それによって姉小路公知の攘夷は愚かな考えであると見事に変心させた日でした。
勝 海舟は7~8年間に及ぶ海防・海軍設置を強く主張してきて、ようやく実現に向かいました。
この一件で、1ヵ月後の5月20日、京都御所、猿が辻において姉小路公知は、尊攘浪士に暗殺される事となります。
幕末の志士が歩いた大坂 1回目
10月12日13時、本町駅からスタートし中之島、肥後橋、を経てリーがロイヤルホテルにて終了。約40箇所をご紹介しました。中之島にある大阪市中央公会堂の前で寄付者岩本栄之助の紹介をしているところに大阪市の平松市長が、私の持っている旗を見られて、近づいて来られ、参加者の皆さんにご挨拶くださいました。水都大阪最終日ということもあり多忙のため1分もいらっしゃいませんでしたが、私を含めて参加者全員喜んでおられました。
さて、シリーズとして大坂の史跡をこのブログで紹介させていただこうと思います。
1回目
【勝 海舟寓居(専稱寺)跡】
勝 海舟日記や近藤長次郎の子百太郎の覚書などで北鍋屋町にあった専稱寺を勝 海舟は、寓居先にしていたことが書かれています。現在の大阪市中央区淡路街3丁目にあたります。
先日の12日は、専稱寺の範囲を説明の上、専稱寺に「勝塾(大坂海軍塾」が開かれ、坂本龍馬や近藤長次郎などの土佐脱藩浪士などの海舟門下生が軍艦の操作や時勢について勉強した場所であることを説明いたしました。
特に「その時歴史が動いた」的なことは、元治元年9月11日に薩摩の西郷吉之助が海舟を訪れ両者は初顔合わせとなりました。西郷は「長州問題、兵庫開港問題、長州の次は薩摩を狙っていないかどうかを探るため、打ちたたくつもりで乗り込みましたが、海舟の人物に驚き頭が下がり、佐久間象山よりも海舟先生の方が凄い」と大久保に手紙を送っています。この会談後、両者に信頼関係が生まれ、江戸城無血開城を決める会談につながりました。
勝 海舟の寓居先には、門下生のほか、桂 小五郎(長州)、松平勘太郎(幕臣 大坂西町奉行)、伴 鉄太郎(幕臣 海舟とともに咸臨丸で渡米)、井上聞多(長州)、吉井幸輔(薩摩)、大島友之允(対馬)など、後に活躍する志士が訪ねています。
アクセス
残念ながら石碑がありません。場所は「ノリタケビル」とその北隣のビルが該当します。
大阪城と甲斐バンドどちらも大好きです。両者は関係ないと思っていましたが、実はおおありなんですよね。
豊臣秀吉が大坂城天守閣の工事を天正11年(1583)9月1日から着工し、3年後に完成します。第一期工事が天正13年(1585)でした。着工の1583年から数えて400年目の昭和58年(1983)、400周年記念として「大阪城ホール」が建てられました。開業は昭和58年(1983)10月です。最大収容人数は1万6千人で年末には恒例の「1万人の第九」が有名です。この大阪城ホール開業後の10月~11月は、さまざまなイベントが催されたようです。
この大阪城ホールで始めて本格的なロックコンサートを行ったのが「甲斐バンド」でした。公演日は昭和58年12月3日です。
私が生き証人です。甲斐よしひろさんがMCで「ピコピコテクノ(YMO)はやったらしいが、この大阪城ホールで本格的なロックをやるのは俺たちが始めてだからね!」観客が大拍手
このMCのあと、今でも好きな歌のひとつ「マッスル」が演奏されました。
最近は中に入ってないですね。
甲斐バンドがまたまた復帰するそうです。そういえば甲斐さんの娘さんもシンガーソングライターで歌手としてデビューしてますね。
すみません。取り留めのない話になりました。
薩摩藩の協力で亀山社中を組織した坂本竜馬は、土佐藩参政後藤象二郎と長崎の清風亭で会談を行い、土佐藩管轄の下で新たに「土佐海援隊」が組織された。
本部は、長崎の商人小曽根英四郎の別邸に置かれ、京都(酢屋)、下関(伊藤助太夫邸)、大坂(薩万)に詰所を置きました。
薩摩藩大坂蔵屋敷周辺の水帳絵図があったことにより、「薩万」の位置がわかりました。
10月12日(今年の3月29日「大阪龍馬会大坂史跡探訪Vol.8」で案内済)にご案内いたします。
お申し込みは下記HPにアクセスいただくかお電話でお申し込みください。
電話06-6120-3277です。(少人数の為留守番電話になるときもあるようです。その最後了承ください)
※予約は10月10日までです。定員20名であとわずかとのこと。ご希望の方はお早めに。
http://www.tabimegane.com/premium
慶応3年12月7日(西暦では1868年元旦にあたり、この日兵庫港が開港しています)、龍馬暗殺から約1ヶ月を迎えようかという時期に、暗殺者の黒幕は「いろは丸事件」の交渉で敗退した紀州藩三浦休太郎であるという噂をキャッチした海援隊士ならびに陸援隊士が、坂本龍馬および中岡慎太郎の仇討ちをするため、三浦と警護にあたる新選組がいる京都「天満屋」へ襲撃します。
海援隊・陸援隊側では真っ先に討ち入った十津川郷士中井庄五郎、新選組側では宮川信吉、舟津釜太郎が闘死。
その報告を聞いた新選組近藤勇は救援隊として永倉新八、原田左之助ら14名を派遣し、途中、紀州藩の救援隊と遭遇し、互いに敵と勘違いをして斬りあったそうです。
この事件を天満屋騒動(事件)といわれています。
夕陽丘周辺の大阪史跡探訪を行います。
大阪龍馬会でこれまで数回実施しましたが、まだの方はぜひご参加ください。
12:30~15:30で谷町九丁目からスタートし
・イギリス外交官アーネストサトウ宿泊の地(本覚寺跡)、サトウ・西郷吉之助会見の地跡、伝坂本龍馬潜伏の地(法性寺)、蘭医ボードウィン寓居跡(法性寺)。法性寺では普段非公開のボードウィンの遺品をご披露していただきます。
その跡は夕陽丘に移り、新選組大阪屯所跡(萬福寺)。yuki-utaさんが建碑活動中ですのでひょっとして間に合うかもしれませんね。(yuki-utaさんがんばってくださいね)
稱念寺で非公開の陸奥家墓所跡の見学。中には残された菩提樹や、原敬、古河市兵衛寄贈の常夜燈、陸奥宗光の最初の妻蓮子の墓碑などが残っています。そして、昨年「篤姫」で準主役だった小松帯刀及び愛人お琴の墓所跡もご案内します。
天王寺七坂、清水の舞台、真田幸村戦死の地をめぐり最後は一心寺で会津藩士数名の墓所をご案内します。(3時間でいけるかなぁ~)
非公開の場所は、機会が少ないのでぜひご参加ください。
坂本龍馬命日の一週間前です。
お申し込みは下記HPにアクセスいただくかお電話でお申し込みください。
電話06-6120-3277です。(少人数の為留守番電話になるときもあるようです。その最後了承ください)
http://www.tabimegane.com/premium/rekishi090922.html
ニューミュージックが流行していた昭和53年。僕は中学3年生。NHKFMでサウンドストリートという番組が毎日放送されていて水曜日のレギュラーに甲斐よしひろが務めることとなり、その2回目を録音しながら聞いた。「東京の冷たい壁にもたれて」「らせん階段」「昨日のように」「きんぽうげ」「シネマクラブ」と甲斐バンドの代表曲を紹介しお別れのとき「俺たちの新しいシングルを聴いて欲しい・・・HERO」という内容だった。初めてコンサートに行ったのは昭和54年5月21日大阪厚生年金会館大ホールだった。それ以来数回コンサートに行った。昨年、ついに甲斐さんと握手することができた。かっこいい!今でもそのときにもらったサインは大事にしている。
最近新曲が出ていない。甲斐バンド再結成が何度もあった。しかし初期のメンバーでベースの長岡和弘は脱退後、甲斐バンドの解散時の三次会ステージに顔を見せて以来甲斐バンドとは距離を置いている。リードギターの大森信和は数年前に亡くなった。
今年の秋から甲斐バンドの全国ツアーが始まるようです。いつまでも元気で我々に勇気づけていただきたいものです。
2009水都大阪が開催中ですが、「大阪旅めがね」のPRを動画で御覧ください。
現在17エリアとプレミアムツアーが催行中。
ぜひ、大阪の良いところを新たに知っていただきたいと思います。
福島、九条、野田、天満、大正、鶴橋・桃谷、空堀、土佐堀・江戸堀・京町堀、など
大阪在住の人でも行ったことが無いと思いますが、意外な発見ができますよ。
北船場、中之島、大阪城、東横堀、寺町(座禅体験あり)もお薦めですね。
意外な天満橋エリア、アートと音楽の町をご紹介します。
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